こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 階級の再生産がなぜ起こるのか?
イギリスの作家A・シリトーは、1928年、イングランド中部の工業都市ノッティンガムに生まれました。
父親はなめし革工場の労働者で、シリトー自身も14歳で学校を終えると、自動車工場やベニア板工場で働きました。
彼のデビュー作「土曜の夜と日曜の朝』にせよ、映画化された「長距離走者の孤独』(ともに新潮文庫)にせよ、労働者階級の「怒れる若者」を描いた作品です。
いずれも作家自身の体験を色濃く映し出した作品です。
学校の授業に飽き、一刻も早く親元を離れて、生まれた町も抜け出すことばかり授業中に考えています。
シリトー作品を地でいっているのは、次に引いた「ハマータウンの野郎ども」です。
これはイギリスの社会学者P・ウィリスが、労
働者階級出身の若者たちに行った聴き取り調査から生まれたモノグラフです。
彼らもまたイギリス中部の工業都市バーミンガムにあるセカンダリー・モダン・スクールの生徒たちです。
セカンダリー・モダン・スクールとは、就職組のための中等学校、進学組はグラマー・スクールです(ただし、現在は両者がコンプリヘンシブ・スクール、つまり総合制中等学校に統合されています)。
ここで「野郎ども」といわれるのは、学校や教師に反抗を繰り返す労働者階級の生徒たちのこと。
彼らもシリトーの作中人物のように、学校で教わることは、親と同じ労働者になる自分たちの将来に関係がないことを「洞察」します。
彼らは、同じ労働者階級の子どもなのに教師のいうことを聞いて勉強する同級生を女々しい「耳穴っ子」と軽蔑します。
「耳というのは、人間の身体のなかでも表現力のもっとも乏しい、もっぱら他人の表現を受容する器官」だから、人のいうことを聞いてばかりいて、ちっとも自分から動かない従順な同級生のことを、「野郎ども」は「耳穴っ子」と呼ぶのでした。
彼らからすると、事務仕事などホワイトカラーの仕事は、「女々しい」というわけです。
こうして彼らは労働者階級の子どもにとって学業が無意味であることを洞察し、マッチョで性差別的な文化のなかで肉体労働を賞賛するようになるのですが、この「洞察」が彼らの未来の「制約」になるとウィリスはいいます。
なぜなら、学校の権威を嫌って反抗し、社会的地位の上昇も考えず、ひたすら男らしい肉体労働者になることを夢想する「野郎ども」は、結果的に「底辺の」過酷な労働を進んで引き受けていくからです。
ここでは階級の再生産の過程ー親と同じ労働者階級に所属していくことーが生じているのです。
感想
階級の再生産は、労働者階級の子どもが、嫌々ではなく、望んでそうなっている側面があることに意外な感じがしました。
下記の本を参考にしました
『ライフイベントの社会学』
片瀬 一男著