とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

多様なセクシュアリティ

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 多様なセクシュアリティの産出

 


フーコーが、コミュニケーションにおける快楽について明確に記述しえたのは、じつは監獄の研究ではなく、そのわずか1年後に発表された『性の歴史1―知への意志』においてであった。

 


ここには、「性」をめぐってこのゲームに興じる人びとの姿が描かれている。

 


この本のなかでフーコーは、近代社会において、性的な「倒錯」が多様な形で産出され、増殖している様子を描いている。

 


私たちは一般的に、性については多くを語ってはいけない、という羞恥心をもった淑女ぶった時代に生きていると考える。

 


性についてはたしかに多くのことがいわれる。

 


だが、それはほとんどの場合恥ずべきことであるし、もしくは逆に、それをいうのはラディカルな侵犯行為であったり、高級な学問であったりするはずだ、と考えられている。

 


性は夫婦を単位とする家族のための、生殖のためのものであり、それ以外の性的な事柄は基本的には禁止されているのだ、と。

 


だが、ここでもフーコーは、権力が禁止を行なっているのだという考えを逆転させる。18世紀末までは、性的な事柄については、はっきりと合法と非合法の分かれ目が定められていた。

 


「性」をめぐる権力は、本質的に法的な事柄であったため、人びとの「行為」のみを問題とした。

 


だが19 世紀以降、「性」は当人の過去、少年期、

性格、そういったすべてとかかわる問題となった。

 


その人間のうえに見出される行動、性質、すべてのしるしは、その人のセクシュアリティと関連しているはずだと考えられるようになるのである(このように当人の性質と結びつけられた性的な事柄を「セクシュアリティ」という)。

 


人びとのセクシュアリティに介入する権力(精神医学等)は、その人間の一切を説明するはずだが、いまはまだどこかに隠れている最高の秘密としてセクシュアリティをしつらえるのだ。

 


そしてこのセクシュアリティを軸にして、法の追及を受けるほどではない、些細な「逸脱」が追い回され、分類され、多様な「倒錯」 —たとえば、「同性愛」「露出狂」「フェティシスト」等々の一覧表が出来上がるのである。

 


近代社会は、セクシュアリティを抑圧しているどころか、かつてないほどにそれについて語り、そのことによって多様な快楽を産出しているのである。

 


19世紀以降のブルジョワ家族は、一夫一婦制の夫婦を中心としているといわれる。

 


性的な事柄は、夫婦の寝室に隠されているべきであり、そこを出てはならない、ということになっている。

 


もし、子どもたちになにか性的な兆候が見受けられるのであれば、即刻それを排除しなければなら

ない。

 


子どものセクシュアリティは管理・統制されなければならない。

 


しかし、このような要請に従って実際に導入された仕組みは、子どもたちが性的な事柄に触れたり目ざめたりしないように、両親の寝室と子どもの寝室をもっとも離れたところに配置したり、男の子の部屋と女の子の部屋とを隔離したりするものであった。

 


こうした空間的配置は親子という上下関係、男女という対立関係をより強固にすることとなる。

 


互いを阻む人間関係上の距離に空間的隔離が加わることによって、互いの秘密は増大する(発見される快楽のためにはまずは秘密が必要である)。

 


そこで、親子、男女は互いに隠微な相互監視を行なう。

 


子どもたちを不安と喜びのなかで監視する快楽、そして親の目を欺くという快楽が相互に増殖し、権力=快楽のゲームの連鎖がはじまるのである。

 


同様にして、学校や精神病院のなかには、そこにいる人間たち、その上下関係、監視方式があるのであって、そこでもまた権力=快楽のゲームが行なわれているのだ。

 


「そこには、教室や寄宿舎、視察や検診といった快楽のための特権的な空間や典礼がある」のだから。

 


親たちと子供、大人と少年、教育者と生徒、医師と病人、精神病医師とそのヒステリー患者ならびに性倒錯者たち、彼らはすべて、19世紀以来、このゲームを演じ続けているのだ。

 


感想

 


性はタブー視されがちてすが、なぜなのかと説明はなく、疑問は残りました。

 

 

 

下記の本を参考にしました

 


『コミュニケーションの社会学

 長谷 正人 他1名

 有斐閣アルマ