こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 社会過程から自我へ
ジンメルやゴッフマンは相互作用自体に焦点を当てたようだが、私(=ミード)は「自我」がどう発生するかに興味がある。
このことについて、ごく一般的なところから話し始めよう。
ジンメルが個人を「無数の社会的な糸の交差点」と見なしたように、私も、「私」や「心」が先にあってそれが他の「私」とコミュニケーション過程に入ると考えるのではなく、他者とかかわる過程のなかで「私」ができあがるととらえたほうがいいと考える。
自我とは「最初に存在し、次に他者との関係に入っていくなにかではなく、社会的潮流のなかのいわば渦巻き」というべきものである。
自我は「生誕のときからそこにある」のではなく、赤ん坊が他者とかかわる過程において発生・生成していくのだ。
それを私は「ジェスチャー」から考え始めたい。
動物、たとえば犬が他の犬を攻撃しようとするときも、赤ん坊が母親になにか要求するときも、ジェスチャーがなされるだろう。
それに相手(他の犬や母親)が反応し、その行動の結果が生まれる。
この三対(ジェスチャー - 反応 - 結果)の社会過程が先にあり、それを経験に内面化することが「思考」、それに中枢神経系が遅延して反応することで生まれるのが「反省的知性」である。
まず社会過程があり、思考や知性は(それに先行するのではなく)その結果として生まれる。
そして、下等動物の知性とは異なる「人間という動物の反省的知性」を「精神」と呼ぼう。
ジェスチャーのうち、声をともなう「有声、有声ジェスチャー、遊び、ゲーム」が「自我」(自分で自分を対象にできる特徴をもつ私)の誕生に決定的な意味をもつ。
声によって相手に対して言ったことが自分にも聞こえるように子どもたちは相手に話しかけ、それを相手が聞くように聞く。
こうして他者の反応を想像して取り入れ、母親の
ふり、教師のふり、警官のふりをして遊ぶようになる。
この「ごっこ遊び (play)」によって、自分は自分にとっての他者になり、子どもはさまざまな他者の態度、役割を取得する。
ただし、これだけではさまざまな役割を取得した「異なった自我」「構成要素的自我」が発生するだけで、「多面的人格」あるいは「人格の解体」が生じるかもしれない。
この「遊戯」に対し、野球など「組織化されたゲーム(game)」の場面を考えてみよう。
ある役割(たとえばピッチャー)を取得する子どもは、他の全役割を取得せねばならないだろう。
バッターはどうするか、キャッチャーは、ショートは、センターは……。
これらの役割がわからなければゲームはできない。他の誰かひとりではない、人びとの態度の組織化を「一般化された他者(generalized oth.
er)」と呼ぼう。
この「一般化された他者」の態度を取得すること
で、自我が組織化される(野球のルールを守って行動できる自我が発生する)。
そして子どもの生活ではさまざまな「ゲーム」が進行している。
自我の統一を与えるのは、「組織化された共同体」全体の態度である。
ただ自分に向けられた態度を取得するだけでは十全な自我の発達には不十分であって、組織化された社会の成員として他の個人の態度を取得しなければならない。
人格が発生する過程とは、共同体に属して、共同体の諸制度を自分の行為に引き継ぐ過程であると
もいえるだろう。
感想
他者との関係の中で自我が生まれると言われることがありますが、ここから来ているのではないかと思いました。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ