こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 合意と誤解
ハーバーマスの立場に対してはこう質問したくなる、「合意の後、どうなりますか」?!
その場合、「コミュニケーション的行為は中止される」のではないだろうか。
合意を求める試み以外は「コミュニケーション」ではないとする立場は、合意という「規範」を持ち込むだけであり、伝達のみを「行為」として取り出して道具的だとか戦略的だとか論じ、規範的にコントロールすることはできないと考える。
これに対しコミュニケーションを「理解」で終了させる理論は、その後なにが起こるか、理解されたことに人びとが賛成するか反対するかを未決定にしている。
「コミュニケーションとは、肯定と否定に対して開かれた」ものであり、その次へと接続されていくのだから、「理解するということには、程度の差はあれかなりの誤解がノーマルなものとして含まれている」。
誤解のため非常に長くコミュニケーションを続ける場合があるが、もちろんこれもコミュニケーションだ。
すべての誤解を解こうとするとコミュニケーションはとても難しくなる。
次の行為で修正されれば十分であり、「わたしたちはこうした誤解と折り合いをつけることでいい」。
私は、社会システムはコミュニケーション接続による社会からなる、と考える。
行為からなるのでもなければ、人間や個人からなるのでもない。コミュニケーションがコミュニケーションに接続することで社会は成立するのだ。
これは、パーソンズやハーバーマスが考えたような、誤解の可能性を低めるルールによって行為を調整するという社会性ではなく、ある行為が(誤解されようが)別の行為(理解)へと接続されて生成する社会性である。
実際、きみたちがコミュニケーションして社会が成立するとは、こうした事態ではないだろうか。
携帯電話はメッセージの内容で繋がるのではなく、返信=接続されることそのものが関係性を可能にする。
どんな正しいメッセージでも接続されなければ終わりだ。
感想
理解するということには、程度の差はあれかなりの誤解がノーマルなものとして含まれているという箇所がおもしろかったです。
完璧に理解することは難しく、そこには少なからず誤解が含まれるものだと改めて感じました。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ