こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 情報伝達と理解
コミュニケーションが成立するとはどういうことか。
ここから始めよう。コミュニケーションを、情報が送り手から受け手へと移転される「移転メタファー」でとらえる立場がある。
この立場は、送り手側が「伝達」をどれだけ手ぎわよく行なうかに注目するだろう。
だが送り手と受け手が同じ情報を同一のものととらえるとは限らない。
送り手ができるのはある選択の提示だけで、これを受け手が処理して(情報から意味を選択して)はじめてコミュニケーションが成立する。
つまり、コミュニケーションは、送り手の「伝達」ではなく受け手の「理解」により成立す
るのではないだろうか。
私(=ルーマン)は、コミュニケーションとは「情報」「伝達」「理解」という三つの選択過程からなると考える。
情報とは「(既知または未知の)諸可能性のレパートリーからの選択」と定義される。
たとえば「きみは天才である」という情報は「きみは秀才である」や「凡才である」などの可能性からの選択だ。
移転メタファーはこれがモノのように移転されると考えるが、情報と伝達行動は別ものであり、どんな行動で伝達するか(これを真剣な口調でいうか、皮肉な口調でいうか)を送り手は選択できる。
この、情報そのものの選択と伝達の仕方の選択の差異を、受け手が観察・確認・理解することによってのみ、コミュニケーションは成立する。
つまり、受け手は「きみは天才である」という情報と「皮肉な口調」という伝達の差異を観察してこの発言を理解するのであり、この差異が理解される場合だけコミュニケーションが成立する。
このコミュニケーションについての考え方を、あるパラドックスに応用してみたい。
「ダブル・コンティン ジェンシー」である。
ふたりの人が相互行為する場面を想像してほしい。私(A)は自分がどう行為するかを相手(B)がどう予期しているかによって決めようとする。
ところが相手(B)も私(A) がどう予期しているかによって自分の行為を決めようとする。
だから、どちらも行為できない。
このどちら側も決められない二重の偶有性(ダブル・コンティンジェンシー)はタルコット・パーソンズが想定したものだが、彼はこれを乗り越えて行為を起こすには価値の合意、規範の共有が必要と考えた。
だが、私はこう考える。
この状況は不明確である。
他我 (B)は試行的に自らの行動を決定して、親しみを込めたまなざしを送ったりなにか身振りをし
たりし、自我(A) がどう受け入れるかじっと見守る。
それに自我(A)が反応すると、それは最初の(B)の行動から見ればコンティンジェンシーを縮減したものになる。
つまり、試しにやってみて、相手の選択にまかせる、その相手の選択も試しのもので次の相手の選択にまかせる、そうやっていると最初よりはどう行動すればよいかわかってきて、どこかに収斂していく。
こうしてダブル・コンティンジェンシーは価値コンセンサスなど存在しなくても「偶然」に開か
れることで解決されていくのであり、「神が何も与えないとしても、システムは生じるのである」
ふたりはブラック・ボックスのように相手を見通しえないままだ。
だがコミュニケーションとはそういうもので、偶然に基づいて相互作用せざるをえないのではないだろうか。
ブラック・ボックスを精確に算定しようとすると必ず失敗する。
ふたりは「以前とくらべてももっと良く互いを理解してもいない」。
でも相手の打つ手を理解して、次の手を接続させ、その次を……とずっと接続させることはできるだろう。
これは相手の「自由」を容認するから続いていく。
この接続は「(暫定的ながら)相手とのやりとりのうえでうまくいくもの……を選択するチャンス」によって根拠づけられる。
感想
コミュニケーションとは「情報」「伝達」「理解」という三つの選択過程からなると考えると
ルーマンの主張は、このままコミュニケーションのイメージとピッタリ一致します。
ルーマンからこのイメージが来ていると思いました。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ