こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 メディア文化と「スター」への熱狂
事実としては、メディア・コミュニケーションは、決して「対等な個人」の情報伝達を生み出すものではないのだ。
情報の「受け手」としての私たちは、メディア情報によって民主主義に参加する能動的な主体となるよりも、むしろその大量の情報を圧倒的に受動的な立場で感受することを楽しみにしている。
そうでなければ私たちは、20世紀のメディア・コミュニケーション史を席巻してきた、映画、音楽、スポーツ、政治などにおける数々のスターやヒーロー(ヒロイン)への人びとの熱狂を説明できないと思う。
人びとはメディアを介した「送り手」として自分の政治的意見を表明するよりも、ある魅力的なスーパースターの魅力を「受け手」として濃密に味わいたかったことは間違いのない事実である。
たとえばジョン・ウェインやグレタ・ガルボなど映画スターの顔や身振りを暗闇の大きなスクリーンで見てうっとりするとき、あるいはエルビス・プレスリーやビートルズなどのロック・スターの激しい音楽がラジオから大きな音響で流れてくるのを聞いて陶酔するとき、あるいはサッカーのマラドーナのスーパー・プレーを路上の大テレビ・スクリーンで見て興奮するとき、私たちはそのメディアの向こう側に、自分の手に届かないオーラを帯びた人間がいることを感じたかったのだろう。
その超越的な人間のオーラを強く感じることに、日常生活の平凡な「相互」作用では味わえないような、圧倒的な非対称のコミュニケーションの濃密な喜びがあったと思われる。
つまり、20世紀におけるメディア・テクノロジーの爆発的普及は、単なる民主主義的な情報発信と「対話」への欲望によってだけではなく、むしろコミュニケーションの「受け手」の立場に立ちたいという人びとの受動性への欲望の結果生じたとしか思えないのだ。
だからコミュニケーション研究が取り上げた事例もまたすべて、火星人に襲われるとか、大統領候補者の演説の迫力に拍手するとか、男の子に愛を突然に告白されるといったような、受動的な立場に立つ喜びを表現したものばかりだったのではないか。
私たちはそうやって、メディアを通して非日常的な「受け手」になることを秘かに欲望してきた。
日常世界のタテの社会関係のなかで、誰かに従属したり憧れたりするときに感じていた小さな喜びを、超越的で宗教的なものにまで膨らませて濃密に感じ直したかったのだ。
感想
確かに、テレビなどは「非日常」を与えてくれるから見てしまう側面があると思いました。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ