とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

自己が無力化されるとは

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 逸脱と無力化

 


儀礼や演技の秩序は、きみたちの「やさしさコミュニケーション」のルールと同だろうか。

 


それをきみはどう思う?

 


この秩序がもつふたつの側面を、最後に話してみよう。

 


たとえば演技や儀礼のルールから逸脱した人が登場することを想像してほしい。

 


敬意も品行も思いやりのルールも自尊心のルールも身につけず、みんなが表と裏を繊細に往復しているのにぶち壊しにする人。

 


感受性が鈍すぎ、機転に乏しすぎ、思慮がなさすぎる、つまりきみたちの言葉でいえば「空気が読めない」人は、「安全を脅かす存在」だろう。

 


だから私たちはその人を「仲間外れ」にする。

 


場合によってはその人が不自然で不完全な人間だと告発し、逸脱の程度が甚だしければ「病気」と考えることで「社会的集まり」を守る必要が生じることになるだろう。

 


結びつきのルールへの著しい逸脱者は「精神障害者」と呼ばれ、排除・隔離されることがある。

 


私は精神病院にインターンとして入って観察したことがあるが、患者は入院時に外部での「役割」を剥奪され、自分で決めていた服装や髪形は標準化され、氏名も奪われる。

 


他人に隠している「情報の聖域」(私信やプライバシー)は侵犯され、外部では接触や注視が避けられる身体もすみずみまで検査され、不機嫌や悪態を示す舞台裏の空間も監視によって奪われる。

 


つまり、「儀礼」や「演技」を支える基盤が剥奪されるのだ。

 


こうして彼らは「自己」をもつことができず、もつ必要もなくなって、「精神病院の被収容者として生きていくこと」を学んでいく。

 


この状況は「自己が無力化される過程」である。

 


だから、一方で、儀礼や演技は私たちが「私」でありつつ、人とコミュニケーションするための基盤である。

 


それが奪われたら「私」は維持できないだろう。

 


他方で、演技や儀礼は私たちを逸脱しないようにあるコミュニケーションのルールに閉じ込める力をもつ。

 


私たちはこの力をよく知っていて、自らをこのルールからはみ出ないようにするだろう。

 


そして、そこからはみ出た者を、相互行為秩序を脅かす逸脱者として排除するのだ。

 


「わかるほどいい」「合意するほどいい」のではなく、ジンメルと同様に、敬意を示さねばならないが示しすぎてはいけない、役割を演じねばならないが呑み込まれてはいけないという両義的な揺れ動きが語られる。

 


精神病院の例では、隠すことができず、すべてを「わかられてしまう」ことで人間の尊厳が奪われてしまう。

 

 

 

感想

 


精神障害者が「自己」をもつことができず、もつ必要もなくなって、「精神病院の被収容者として生きていくこと」を学んでいく。

 


この状況は「自己が無力化される過程」である

 


という箇所が特におもしろかった。

 


下記の本を参考にしました

 


『コミュニケーションの社会学

 長谷 正人 他1名

 有斐閣アルマ