とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

人はみな複数の役割を演じる俳優

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 儀礼と演技

 


ゴッフマンのところを訪れ、ジンメルが紹介してくれたのですというと、ゴッフマンは困ってしまうくらい照れながらAくんを招き入れた。

 


私(=ゴッフマン)も、「相互作用の自然的なユニット」出会い、社会的場面、社会的集まり」を社会学の対象にすることを考えた。

 


ここにきみと私がいる、これ自体を描こうと。

 


私はこんなふうに考える。

 


参加者がいくらか当惑する可能性が相当あること、あるいはひどく辱しめられる可能性が少しはあること、に手をださないような相互行為はないように思われる。

 


人生に賭のようなところはあまりないかもしれないが、相互行為は賭なのだ。

 


さっきあんまり照れてきみを困らせてしまったが、当惑を生みそうになる賭としての相互行為が、どう「秩序」へと戻っていくか、このありさまを描いてみたいと思ったのだ。

 


キーワードをいくつかあげよう。

 


ひとつは「儀礼」。ジンメルとともに私が強い影響を受けたのがエミール・デュルケームだが、彼は 1912 年の『宗教生活の原初形態』で、オーストラリアのアボリジニによるトーテミズム信仰を例に、儀礼による連帯を描いた。

 


これを現在の私たちの小さな相互行為を見るのに応用してみたい。

 


私たちは神を礼拝するのと同様に他者の自己という「聖なるもの」を拝み(「故意」と呼ぼう)、私自身も神のように他者から拝まれるに値するものだということを呈示しようとする(「品行」)のではないか。

 


「敬意」には二種類ある。まず、相手が「聖なるもの」だから侵さないよう距離をとる「回避的儀式」。

 


接触しない、注視しない、言及しないなど、トーテミズムの「禁忌(タブー)」と似ている。

 


逆に、相手を重要だと思っていると示す「呈示的儀式」。

 


挨拶、賞讃、サービスなど、神への「供犠(いけにえ)」に近い。

 


このふたつは回避しすぎても(水臭い!)呈示しすぎても(おせっかい!) いけないという矛盾があり、私たちは当惑を生まないようそのあいだを選び続けている。

 


同時に、他人に適切な敬意を示せる「きちんとした人」だと示すことで、他人からの敬意に値する存在だと示そうとする。

 


これが「品行」である。

 


こうした儀礼的要素が、私たちの相互行為を秩序づけている。

 


もうひとつのキーワードは「演技」。誰かといっしょにいると、どうしてもなんらかの印象を与え、なにかを表現してしまう 。

 


私たちはこれを統御する「印象操作」をいつも行

なっている。たとえばきみは先生の前でもっとも望ましい印象(まじめな学生)を見せ、それ以外の印象(サークルでのお調子者)を隠す。

 


私たちは複数の役割を演じる俳優として「オーディエンスの分離」を行ない、印象を操作する。

 


しかし、別の観客の前での役割を誤って演じたり、分離されるべき観客が鉢合わせするなど、印象は「ささいな不運な出来事でこなごなになりかねない繊細な壊れ物」である。

 


だが、当惑を招く事態をパフォーマーたちは必死にとりつくろって自分のショーを救おうとするだろう(「防衛措置」)。

 


また、観客の側もそれを察して見て見ぬふりをしたり、あからさまな言いつくろいを許容したりして相手のショーを救うよう援助する(「保護措置」)。

 


自分のショーを演じ切る「自尊心のルール」と相手のショーを救う「思いやりのルール」が私たちに要求されており、これが相互行為を秩序づけることになる。

 


印象操作を行なうさい、「表局域 」と「裏局域」が生まれる。

 


バイト先の店長にまじめなバイトという印象を見せながら、裏でバイト仲間と店長の陰口をいうことがあるだろう。

 


これは、表の印象とは別の側面がきみにある、というだけではない。

 


裏で店長にこうすれば気に入られるという作戦会議をすることで、表で店長や客に気持ちよい自分を演じることができる。

 


もちろん舞台裏の情報が店長に伝われば演技は台無しだろう。

 


だが陰口をいいあうことでみんな同罪になり、店長に密告できなくなる。

 


舞台裏は表舞台での演技にとって必要だが、それは表舞台と慎重に分離されねばならない。

 

 

 

いやもっとデリケートに私たちは隠す/顕すを行き来しているかもしれない。

 


私たちは役割を演じるが、表局域でも役割に100%コミットするわけではなく、役割と自己のあいだにくさびを打ち込んで役割に呑み込まれない「自己 」を表そうとするのではないか(「役割距離」)メリーゴーラウンドに乗る 3~4歳の子どもは夢中・まじめに乗るが、5歳児は「ぼくはやっと乗りこなせるようなのじゃない」と皮ひもを無視したり、仰向けになったりする。

 


外科医は手術中に冗談をいって、自分が状況を管理できており「外科医以外の私」がいると示す。

 


こうやって表舞台の役割の秩序から隠すべき私を持ち出すことで、相互行為の秩序もそこから外れる「自己」も維持される。

 


感想

 


有名な社会学者だけあって、おもしろい着眼点だと思いました。

 


私たちは複数の役割を演じる俳優として「オーディエンスの分離」を行ない、印象を操作するというところは特に説得力を感じました。

 


下記の本を参考にしました

 


『コミュニケーションの社会学

 長谷 正人 他1名

 有斐閣アルマ