とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

「男」の通過儀礼としての競技スポーツ

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


「男」の通過儀礼としての競技スポーツ

 


社会学では、 ある社会に生まれた人間が固有の規範や価値を学習して集団の正式資格を得ることを「社会化」と呼んでいる。

 


この社会化を達成するために、世界のほとんどの伝統文礼というものがおこなわれてきた。

 


それにはさまざまなバリエーションがあ るが 、とくに男の子が成人するときは、苦行をとおして何らかの「強さ」を証明させる儀礼をおこなうことが少なくなかった。

 


かつての日本では成人式に徹夜で山へ登らせた地域があったし、バンジージャンプの起源も成人式にある。

 


極端な例ではエチオピアのアムハラ族の少年は「ブへ」と呼ばれるむち打ち競技に参加し、皮膚が裂けたり耳がちぎれても最後までやりぬき、それに熟練することが大人になる条件であった。

 


こうした試練を経て、少年は苦痛を平然と受け入れられるようにならねば大人と認められない。

 


しかし少女にはそういう期待はされない。

 


世界には成人の際に性器の一部を切除する「割

礼」をおこなう文化が多くあるが、そのときの男女のあつかいには違いがある。

 


少女が泣き叫んでもそれは単にみっともないだけだが、少年は黙って耐えなければ儀礼は不成立となりかねない。

 


つまり少女には外科的処置を受けることだけが要求されるのに対して、少年には〈試練に耐えること〉も含めて求められている。

 


さらに、女性がそもそも通過儀礼に参加させてもらえない文化が多いことを考えると、それはむしろ「選別正当化儀礼」や「排除儀礼」と呼ぶほうがふさわしいという社会学者すらいる。

 


こうした「男」を選別する通過儀礼は、じつは伝統的な「遅れた」 文化にだけ存在するのではな

い。

 


近代日本でその類例を探すなら、「体育会系」のクラブやスポーツ少年団がそうだった。

 


男ばかりのコーチや先輩が、現在あるいはかつてのプレイヤーとしての経験から、技術的というよりは精神的な訓練をおこなう、それもときに「しごき」と呼ばれるほど厳しい指導をおこなう姿はまさに通過儀礼そのものであった。

 


多くの青少年スポーツ組織には、通過儀礼と次のような類似性も認められた。まずコーチや先輩はどんなに根拠があやふやでも儀礼の規則や要請、つまり「部活」的慣習に従順であるよう選手を導いていく。

 


そのため彼らはあからさまな暴力や脅迫から、陰ながらの援助やはげましにいたるさまざまな手段を使う。

 


かつて「運動中に水を飲まない」というのは運動界の常識であったが、これなどは当時でも生理学的な理由からというより組織の秩序を保つために強制されていたようだった。

 


またその活動は家族その他の日常集団から隔離された場面でおこなわれ、とくに女性から遠ざかる

ことが一般的である。

 


恋愛を自粛させられたり、同性だけの合宿生活が強制されたりすることは、競技能力の向上よりむしろこの理由から理解されるべきだろう。

 


さらに、コーチや先輩と現役選手との関係は社会的な序列関係を模範的に表現するものであった。

 


現実社会では(たとえば会社のなかでの)序列は必ずしも個人の能力に対応していない。

 


しかし競技スポーツの世界では、本人の技量や経験だけで計れるような理想的な序列が実現されている。

 


かつて通過儀礼をとおしておこなわれたのと同じように、スポーツ界という疑似社会で選手として上達するなかで、少年たちは「大人の階段を登った」ように体感できる。

 


こうして成人した少年たちは、自らもコーチや世話役となることを希望し、青少年スポーツという通過儀礼の伝道師となっていく。

 


ここで注目すべきなのはスポーツ界での女性指導者の少なさであって、たとえ女子競技であっても

指導者は男性ということがあたりまえになってしまっている。

 


その副作用として、スポーツエリートの男性のなかには、一般の社会生活においても競技能力の劣る女性を、ついマネージャーのように脇役あつかいしてしまう者も出てくることになる。

 


感想

 


通過儀礼と部活が似てるイメージがあるのは、ここから来ているのかと思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジェンダーで学ぶ社会学』  

 伊藤公雄 牟田和恵編著

 世界思想社

 

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