こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 教育的コミュニケーションの奇妙さ
教える/学ぶというコミュニケーションにはなにか奇妙なところがある。
ピエール・ブルデューは『教師と学生のコミュニケーション』で、教育的コミュニケーションの奇妙さをこんなふうに論じる。
教師が発信した情報量に対して学生が受容した情報量を最大にする「効率的なコミュニケーション」を基準にすると、教育では許容しがたいほど巨大な情報が浪費されている。
教師は学生が教師のメッセージのコードを知っているという前提で語るが、学生はそのコードを知らず、「理解不全」と「理解不全が存在しないという幻想」が共存する。
その後の『再生産』でも、伝達の効率を測るため教育を「単なるコミュニケーション関係として」見ると「情報の消耗のおびただしさ」が暴露されると彼はいう。
「もっとも効率的なコミュニケーション」というものが仮にあるとして、教育のコミュニケーションがそれから逸脱するのは間違いないだろう。
ブルデューは、教師と学生のコードの相違とそれを相互に知っているはずという前提(誤った思い込み)を雑音(ノイズ)と考える。
教育的コミュニケーションでは、コミュニケーションの技術的機能(メッセージを伝えること)よりも表現的機能(教師ぶった教師として自己を伝えること)が重視される。
これらは、教師が「正統的文化を押しつけ、教えこむ行為としての教育的働きかけ」をするために必要な「権威」ともかかわるだろう。
ブルデューは『再生産』で、教育を支配階級が被支配階級へ前者が正統的と認める文化を恣意的に教え込む「象徴的暴力」ととらえたが、これを維持するためのノイズが「単なるコミュニケーション」でない関係を生むというのだ。
しかし教える/学ぶとはどうしても「効率的なコミュニケーション」から外れる側面を生む(必要とする)のではないだろうか。
ブルデューがシンプルにいうように、教育的コミュニケーションとは「知っている者とまだ知らない者との間に成立する」コミュニケーションである。
このふたつの異なる人びとのあいだには、「単なるコミュニケーション」とは違う奇妙なコミュニケーションが発生するのではないだろうか。
感想
教育的コミュニケーションは奇妙な側面があるという、おもしろい指摘だと思いました。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ