とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

秘密と社交のおもしろさ

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 

 


秘密と社交

 


きみたちの「やさしさコミュニケーション」にもっと近づいてみよう。

 


きみは「わかりあえばわかりあうほどよい」と思っているのではないかな。

 


でもこれもやはり通俗的で皮相な考えだと思う。

 


これとは逆の、「秘密」というものを考えてみよう。

 


コミュニケーションで他者を絶対的に知ることはできるか。もちろんできない。それは望ましいか。

 


むしろ望ましくないのではないか。

 


関係とは「一定の無知」と「相互の隠蔽」を前提とし、無知、隠蔽、秘密がコミュニケーションを

支えるのではないだろうか(同 358)。

 


知人関係を考えれば、お互いなにかを隠しあい、秘密を配慮しあって関係が支えられるのは確かだろう。

 


いや、恋人や夫婦のようなもっと親密な関係でも秘密は必要だ。結婚してすぐは相手のすべて知りたく思うかもしれないが、互いに謎がなくなったら「魅力のない陳腐な慣れ」だけ残り、関係は興ざめするのではないだろうか。

 


まだなにかが残っているという予感、不明瞭さが他者の魅力を支え、関係を深いものにする。

 


「秘密、つまり消極的あるいは積極的な手段によって支えられた現実の隠蔽は、人類の偉大な達成のひとつである。

 


幼稚な状態においては、あらゆる考えがたちまち言いあらわされ、あらゆる企てがすべての人の目につきやすいが、この状態に対して生活の途方もない拡大が秘密によって達成される」(同 371)。

 


すべてがわかったら私たちは多くの人と関係を結ぶこともできず、他者といる魅力や歓びが消失す

るのではないだろうか。

 


では、コミュニケーションの歓びはどこにあるだろう。

 


「社交」という楽しいコミュニケーションを考えてみよう。

 


相互作用にはさまざまな内容や目的があるが、「社交」とはそれから解放された相互作用のための相互作用であり、「純粋の『社会』」「社会的遊戯」と呼んでもいい。

 


たとえばなにが正しいか、どうしたら合意が得ら

れるかなど「議論が実質的になる途端に、もう社交的でなくなる」。

 


社交はこれを排除することで自身以外に目的をもたないコミュニケーションとなり、社会は「遊戯」になる(ジンメル 1917 = 1979: 81,85-86)。

 


この遊戯としてのコミュニケーションには、各人の内容も入り込んではならない。

 


富や地位、学識や名声、能力や業績をひけらかし

たのでは社交は台無しだ。

 


いや、性格や気分などの個人的事情や内面性が入り込んでも相互作用のための相互作用と衝突してしまうだろう。

 


たとえば仮面舞踏会(!?)のように、社交においてはわかりあうべき「内面」などすべて捨てて、「純粋な人間性」つまり、ただの人にならなければならず、ただの人同士として「すべての人間が平等であるかのように」行なう遊戯が展開される(同80)。

 


恋愛ゲームのひとつ、女が示す「コケットリ」について話して終わりにしよう。

 


男が女を求めるが、女のほうは「与えることを仄めかすと思えば、拒むことを仄めかすことで刺激し」、「惹きつけはするものの、決心させるところまでは行かず」、「避けはするものの、すべての望みを奪いはしない」(同 82)。

 


エスとノー(結合と分離)のあいだで揺れ動くゲーム(すごく楽しいよね!)。

 


ここでは、深刻なものも悲劇的なものも「社交独自の摩擦のない影の国のシンボリックな遊戯」にかわる (同 87)。

 


ここには目的も結果も悲劇も真実もない。

 


ただコミュニケーションのためのコミュニケーションが遊戯として続いていく。

 


感想

 


秘密の奥深さを知れました。

 


「わかりあえばわかりあうほどよい」というのは、本当はそうでもないのかもしれないと思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『コミュニケーションの社会学

 長谷 正人 他1名

 有斐閣アルマ