とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

ジンメルの着目点

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 相互作用の社会学

 


Aくんがジンメルを訪れると、彼は講義の準備で忙しそうだったが、「やさしさ」と聞いてなにか興味をもったようだった。

 


Aくんが「やさしさコミュニケーション」のこととハーバーマスから聞いた話を伝えると少し考えて、早口に話し始めた。

 


たしかに私(=ジンメル)は、同世代の社会学者たちと少し違う関心をもっていた。

 


親しかったマックス・ヴェーバーやフランスの

エミール・デュルケームなど誰もが「個人対社会」という問題を扱っていたが(その構図は決定的に重要だと私も思う)、それとは別の地点に問題があり、そこから考え始めることを私は主張した。

 


それは「相互作用」である。

 


「社会」が実在するという立場があるが、社会が個々人の集まりにすぎないとすればそれは実在せず、他方で「個人」も究極の単位ではなく「無数の社会的な糸の交差点」(ジンメル 1890=1998: 113)にすぎない。

 


あるのは、一切と一切とが「何らかの相互作用」を結んでいること(同 17)、これである。

 


相互作用があるとき「社会」があると見えたり、相互作用の結果「個人」が生まれたりし、その

結果「個人対社会」を問うこともできるだろう。

 


だが重要なのは、「まだ確固とした超個人的な構成体へ」は固まっていない「く生まれたばかりの状態〉の社会」(ジンメル 1908=1994: 上 29) をとらえることではないだろうか。

 


「人々がたがいにまなざしを交わしあい、相互に妬みあい、たがいに手紙を書き交わしたり、あるいは昼食を共にし、またいっさいの具体的な利害のまったくの彼方でたがいに同情して手を触れあったり、あるいは反感を抱いて接触しあい、利他的な行いにたいする感謝によって裂くことのできない結合的な作用が存続したり」すること(同29)。

 


もうできあがった「社会 (Gesellschaft)」ではなく、このような社会が生成すること=「社会化(Vergesellschaftung)」をとらえる社会学、つまり「相互作用」を問いの対象とする社会学を私は考えようと思ったのだ。

 


では相互作用になにを見出すか。

 


唐突だが、結合しつつ、分離する「橋」や「扉」を想像してもらいたい。

 


橋がかかると岸と岸が結びつくが、それまで気にならなかった両岸の距離も思い知らされる。

 


ふたつの部屋の間に扉ができると部屋は結合するが、開きうる扉が閉められると両部屋の分離がより強く意識される。

 


このように結合があるところに分離があり、分離があるところに結合がある(ジンメル1909=1999)。

 


「額縁」や「取っ手」も絵や水差しと周囲を切り離し、結びつける(ジンメル 1902= 1999-

1905= 1999)。

 


結びつくか/離れるかではなく、結合するから分離し/分離するから結合する。

 


私たちはさまざまな境界にこの両義性を発見する。相互作用もこの両義性に満ちているのではないだろうか。

 


いくつか例をあげよう。「大都市と精神生活」(ジンメル 1903=1976) という講演でこう話したことがある。

 


大都市住民の特徴的な態度は「冷淡さ」で、小都市での積極的に関心を向けあう態度に比ベ社会が解体するように見える。

 


だが多様な人びとと出会う大都市で小都市的な態度をとると、憎悪や闘争や完全な無関心が生まれかねない。

 


大都市住民は冷淡な態度によってこれを防ぎながら多くの人びとと接しうる。

 


心のうちにかすかな嫌悪や反感が存在するかも

しれないが、距離をとることで暴発せずにすむ。

 


またこの関係は小都市の窮屈さや偏見とは反対に、個人の「自由」も生むだろう。

 


近づけば近づくほど(結合するほど)いいという態度は関係の破綻を生むかもしれず、「分離」した態度こそ「結合」を可能にする。

 


より熱い分離、「闘争」を考えてみよう。

 


私は、ただ調和的で「結合」するだけの集団は非現実的だし生き生きしないと思う。

 


内部に闘争という「分離」があってそれが調停されるとき、集団内の相互作用は活性化される。

 


また、外部との闘争という「分離」は集団内部を強く「結合」させるがないふだん折り合いがつけられた敵対が露になり集団を崩壊させることもある。

 


分離が結合を生み、結合が分離を生む。私の考えでは、社会とは「調和と不調和、結合と競争、好意と悪意のなにほどかの量的な割合を必要」とし、調和、結合、好意だけの社会がよいという考えは通俗的で皮相な見解である(ジンメル 1908=1994: 上 264)。

 


感想

 


有名な社会学者だけあって、おもしろい着眼点だと思いました。

 


特に、分離が結合を生み、結合が分離を生む。

 


私の考えでは、社会とは「調和と不調和、結合と競争、好意と悪意のなにほどかの量的な割合を必要」とし、調和、結合、好意だけの社会がよいという考えは通俗的で皮相な見解である

 


という最後のくだりがなるほどと思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『コミュニケーションの社会学

 長谷 正人 他1名

 有斐閣アルマ