こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 仲のいい親子関係の虚像
私たちは、「親子関係では密なコミュニケーションによる相互の理解が大切なのだ」といったような表現をメディアから聞くとき、そこに奇妙なよそよそしさを感じることはないだろうか。
そこでは親子というある種一体となった密度の濃い直接的な結びつきがいったんそれぞれの平等な個人へと解体されたあとに、もう一度、両者が言葉やメディアを介して互いを気遣いながら関係を作り直していくかのように考えられている。
しかし、これほど本末転倒の考え方があるだろうか。
親子は事実としては、コミュニケーションによって相互に理解しあうより以前に、ただ単に生んだ者と生まれた者という抜き差しならない関係としてそこにあるにすぎない。
だから伝統的社会の親子は、いかなる心理的な葛藤や憎悪のなかで互いを嫌っていたとしても、その非対称な結びつきを感じつつ生きるしかなかった。
逆にいえば、現代のコミュニケーションによって友だちのように仲のよくなった親子は、どこか不自然に見えないか。
いまでも親子同士は、自律した個人同士の関係というより、むしろ葛藤をもちつつも切っても切れない関係であることは誰もが経験的に感じているだろう。
つまり私たちは「コミュニケーション」という概念をメディアや学問によって学び、自分自身の人間関係にそれを当てはめることを通して、現代のどこかよそよそしく互いに配慮しあうような「やさしい社会」を作ってきたのではないか。
だから、そこでは私たちは、男と女として、大人と子どもとして、先輩と後輩として互いの非対称性や不自由さに向きあうことを避けてきたのではないか。
私たちは,「コミュニケーション」という概念によって私たちの自然的存在のありようを疎外してきた。
だが、私たちはだからこそ、この「コミュニケーション」という概念から逃げてはいけないのだと思う。
私たちはもはや、伝統的な社会のように子はただ親に従うものであり、女は男に従うものであり、後輩は先輩の命令に従うべきだなどといった封建的な人間関係を自然に作り上げることはできない。
いま、そのような非対称的な関係を他者に対して要求することは、ただの暴力にしかならないだろう。
だからこそ私たちはこの「コミュニケーション」という記号とメディアを介したよそよそしい平等な関係を前提にしつつ、その交流に血を通わせるように試みなければならないのだ。
感想
親子関係は、ただ単に生んだ者と生まれた者という抜き差しならない関係としてそこにあるにすぎないというくだりは、納得させられました。
仲のいい親子は、どこか不自然な感じも否めません。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ