とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

喧嘩コミュニケーションとは

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 喧嘩コミュニケーションとしての友情

 


現代人から見れば、親しい人間同士のあいだに上下関係や競争関係が存在するということ自体が信じがたいかもしれない。

 


しかし充実した友人関係というものは、じつはこうした不均衡な要素を多分に含んでいるのではないだろうか。

 


たとえば子どものころには誰でも親戚や近所の年長者を兄や姉のように慕い、彼らと肩を並べようと背伸びしたり真似したりした経験があるはずだ。

 


また男の子は、仲間に自分の勇気や強さを示そうとして危険なことに挑んだり格闘技ごっこをしたりすることが大好きだし、女の子同士でも、見栄の張りあいや派手な口喧嘩熱中することは珍しくないだろう。

 


いまの人びとは全体的に、他人と無駄に熱くかかわることを嫌うようになっているが、少なくとも子どものころの私たちは、こうした非対称的で対抗的な友人コミュニケーションを無邪気に楽しんでいたはずなのだ。

 


それどころか、やくざや芸人や職人のような上下関係の厳しい世界や、一部の男子校などでは、若者組的な人間関係がいまでも生きているといえよう。

 


たとえば P. ウィリスは、イギリスの不良少年たちが、ふざけ半分のこづき合いや喧嘩、異性の存在を意識して演じる派手なふるまい、良い子ぶった生徒たちを圧倒するための行動を通じて、仲間同士の絆を深め、肉体労働者にふさわしい立ち振るまいを習得していくことを明らかにしている。

 


その様子は、若者組の男たちが面子の張りあいに熱を上げていたのとなんら変わらないだろう。

 


美術作家の大野左紀子は、粗暴さを誇示することで友情を確かめあう、こうした友人関係のあり方を「喧嘩コミュニケーション」と名づけ、 ジェンダー論の観点から興味深い考察を行なっている。

 


さらに身近な例を出せば、少年マンガは、対抗的な友人関係の魅力を存分に描き出してきたメディアといえるだろう。

 


少年マンガでは、ライバル同士が対抗心むき出しで闘い、昨日までの強敵が今日の友になっていくストーリーが繰り返し描かれる。

 


なぜこうした同じ展開の物語が、男女を問わずいまもずっと人気があるのだろうか。

 


それは、はじめからなにもかもわかりあった葛藤のない友人関係よりも、「隔たり」のある者同士がぶつかりあいながら「一致」を見出していく友人関係のほうに、私たちが魅力を感じるからだろう。

 


こうした安直な「一致」をはばむ対立や齟齬こそが、友人とのかかわりを生き生きとしたものにするのではないか。

 


しかもそうした遠慮のないやりとりから互いの友情が深まることも、私たちは数多くの名作マンガから教わってきたはずである。

 


そもそも相手のことに対する強いこだわりがなければ、嫉妬も対抗心も生まれようがないからだ。

 


つまり、いまの私たちも優れたマンガやドラマを通じて、友人に対する「愛」は、尊敬や同調といった友好的な形だけでなく、喧嘩や競争といった敵対的な形も取りうるということをよく知っているのである。

 


でもちろん、仲間意識のない悪口や暴力はただのいじめであるし、喧嘩コミュニケーションが女性よりも男性のあいだに多く見られることも事実だ。

 


しかしよくよく思い出してみれば、一般の大人や女性たちもまた、優秀な同僚に対して闘志を燃やしたり、親しい先輩の生活スタイルを真似たりした経験はもっているのではないだろうか。

 


じっさい、互いにライバル視する友人がいたことでスポーツや習い事が飛躍的に上達した経験や、気の合う仲間と悪態をつきあうことの楽しさは誰でも知っていよう。

 


少なくとも友人同士の摩擦や衝突が、互いの人格を傷つけるだけではなく、その友人との特別な絆(本気でぶつかりあえる仲)を感じさせてもくれるということは間違いないだろう。

 


したがっていまの社会においても、こうした熱い

友人関係が形成される可能性はいくらでもあると思われる。

 


感想

 


喧嘩するほどなかがいいと言われるが、こういうことだったのかもしれないと思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


『コミュニケーションの社会学

 長谷 正人 他1名

 有斐閣アルマ