こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 「望まれて生まれる」という物語
今日、親子関係には、「純粋な関係性」に基づく感情的な結びつきが求められている。
このことは、親と子が対等な関係性をめざし、互いの意思や感情を尊重するということを意味している。
このような関係は先に指摘したように、親子間の依存を増し、相手に対する支配関係すら生じさせてしまうという矛盾を抱えている。
しかし、親と子は、「純粋な関係性」の構築をめざすということとはまったく逆の方向性を内包した関係でもある。
それは、親と子が「産む - 生まれる」という決して覆すことのできない非対称な関係に置かれているということである。
この関係は他とは異なっている。
たとえば、教師と生徒という関係がある。
ここには、親子と同じように「教える-教わる」という一方向の関係があるように思われる。
しかしこの場合、教師が生徒に「教える」うちに「教わる」というように、関係が逆転することがある。
「育てる」という点に関してみれば、親子の場合でも同じである。
「親育ち」という言葉が流行しているように、親も「育てる」ことをするうちに「育てられる」ことを体験する。
しかし、「産む-生まれる」ということは別である。「産む」側の親が「生まれる」側の子どもと逆転するということはありえない。
親はどこまでいっても産む側に位置し、子どもは否が応でも「生まれる」側置かれる。
ここには、互いの意思や感情の尊重とはまったく無縁の、ただただ「この親から生まれた」(この子を産んだ)という事実のみが存在するという関係がある。
近年、この「生まれる」ということの意味を追求する人が増えている。
香山リカは、精神科の診察に来るクライアントのなかに、自らの出生について執拗なこだわりを見せる人が少なくないと指摘する。
たとえば、ある50代の女性は「趣味のサークルの人間関係に悩んでいる」という主訴で香山のもとを訪れている。
彼女は自ら悩みを話し出すが、その内容は「サークルの人間関係」を即座に通り越え、子ども時代のことにまでさかのぼる。
香山は、いつも自分の出生の話に戻ってしまう彼女に「サークルの人間関係が問題なんですよね」と問いかけるが、その悩みの根源は母親に望まれて生まれていないことにあるのだと解説された。
「今がそのように幸せなら、自分の出生のことはまあいいか、という気にはなりませんか」と尋ねると、ミスズさんはきっぱり、「なりません。それとこれとは別の問題。私にとっては,望まれて生まれた子じゃない、というのはどうしても水に流せない問題なのです」と言い切った。
客観的には、ミスズさんは望まれて生まれた子ではないという確証はないし、「母親らしいことをしてもらっていない」というのも事実かどうか、定かではない。
また、そもそも診察室にサークルの仲間との問題
を解決する目的でやって来たはずなのに、半世紀以上も前に、母親がなぜ自分を産んだのかという問題にまで立ち返って考えなければならないものなのだろうか。
母親はなぜ自分を産んだのか。この生にかかわる根源的な問いについて、親ではなく自分自身が望んでこの世に誕生したのだという議論が登場している。
代表的な論者はスピリチュアルな世界を説く江原啓之や『生きがいの創造』(1999年)の著者の飯田史彦である。
彼らは、「魂」が「生まれていくべき両親」を見つけて進んで行き、その結果、母親が受胎したのだと語る。
また、産婦人科医の鮫島浩二 は同様の内容を詩によって表現している。
この詩は「おとうさん、おかあさん、あなたたちのことを、こう、呼ばせてください。/あなたたちが仲睦まじく結び合っている姿を見て、わたしは地上におりる決心をしました」というくだりで始まっている。
これらの著作は、母親から生まれたという圧倒的に受け身にならざるをえない事実を、自己選択の結果というように反転させ、出生へのこだわりから人びとを解放しようとする。
感想
母親から生まれたという圧倒的に受け身にならざるをえない事実を、自己選択の結果だというところがおもしろいと思いました。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ