こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 ジンメルと相互行為
社会をある種のコミュニケーションとして記述しようとしたのが、ゲオルク・ジンメルである。
むろんジンメルは、個人を超えたところにある「客観的な構成体」としての社会、彼の表現に従えば、国家、家族、同業組合、地域共同体、階級などが存在していることを認めなかったわけではない。
しかし、彼が社会現象として重視しようとしたのは、こうした「もの」のような客観的社会ではなく、個人と個人のあいだで糸のように絶え間なく織りあわされている相互作用のほうである。
ジンメルによれば、どのような社会集団にあっても、諸個人は必ず、他者と張りあって競争しあったり、他者に憧れて模倣をしたり、逆に劣等感を感じて下位者として付き従ったり、他者との衝突を避けて分業したり、他者とともに仲間を作ったり、仲間割れしたりといったように相互作用をドラマチックに繰り広げている。
こうした相互作用は、必ずしも客観的な集団のルールに拘束されることもないし、逆に個人の意志によってコントロールされるわけでもなく、それ自体が自律的に営まれるような活動である。
このように個人が相互作用を通して社会を作りつつある過程にありながら、その社会はまだ「もの」としては固定化していない生成過程にあるという意味で、ジンメルはこうした相互作用を「社会化の諸形式」と呼んだ。
ただしジンメルが、「相互作用」という概念を使っていても、「コミュニケーション」という概念は使わなかったことにも注意しておく必要があるだろう。
つまりジンメルの議論は、「相互作用」の社会学であって、「コミュニケーション」の社会学そのものではない。
ではジンメルの社会学にはなにが欠けていたのか。「情報」もしくは「記号」という概念だろう。「情報」や「記号」を伝達したり理解したりする人間同士のやりとりが「コミュニケーション」である。
これに対してジンメルが取り上げる、上位者/下位者とか二者関係、三者関係とか闘争/結合といった相互行為の「形式的」なありようは、情報のやりとりによる関係の変化よりも、固定化された社会関係自体のありように焦点が合わせられている。
それに対して私たちは、情報のやりとりのなかで愛情や憎悪のような感情を揺れ動いていく人間関係をより細やかにとらえたいと思う。
それがジンメルの視点を、コミュニケーションの社会学へと推し進めることであろう。
感想
社会学を勉強すると必ず名前があがるジンメルですが、確かに、「コミュニケーションの社会学」の人と勘違いしそうだと思いました。
定義や捉え方が違うということだと思いますけど。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ