とがブログ

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報道をどこまで信じるか

こんにちは。冨樫純です。

 


「報道・広報—心理学からのレッスン」についてのコラムを紹介します。

 


たしかに、マスコミの報道は、一部分を都合のいいように切りとっていることは間違いないと思いました。

 


地震、大量虐殺、難病、貧困、紛争、台風、墜落事故などさまざまな出来事が、人々の生を脅かす。

 


そのような不運に遭遇し窮状にある人がいると知ったとき、私たちは気遣い、何とかしてあげたいと思い、ときにはその思いを行動に移すだろう。

 


しかし、地球は広い。

 


今日、地球の裏側など直接交流が困難な地域の情報は、少なくとも第1段階としては、メディアによる報道を通して知る。

 


したがって、支援は報道のされ方に大きく依存することになる。

 


これに関していくつかの問題が指摘されており、その1つとしてメディアによる提供情報の選択がある。

 


たとえば、アフリカだけに限定してもスーダン

ニジェールソマリアエチオピア中央アフリカなど多くの国や地域で深刻な食糧問題を抱え、飢餓が日常化している地域がある。

 


しかし、メディアはそれらをほとんど取り上げないだけでなく、わずかに取り上げるときもどこか1カ国(所)を選択する。

 


その際、選択基準は危機の深刻度ではなく、「スーダンではなくソマリアを取り上げるのは、写真になるからかもしれない」(Isaacson, 1992) と、メディア産業としての情報価値、言い換えれば情報の商品価値の方が優先される。

 


どんなに悲惨であろうと、あるいは支援による救済可能性がいかに高かろうと、取り上げられなかった国や地域の現状は、当事者以外には知られることなく、多くの人々にとって「存在しない」と同然のこととなる。

 


情報の消費者である一般の人々は、そうして取捨選択された情報に基づいて世界を知ることになるが、そのこと自体に気づかない。

 


第2は、報道の仕方である。

 


マザー・テレサはかつてこう述べた。

 


「私は大規模集団を見るときは動かない。1人の個人がそこにいるなら、手を差し伸べる」(Slovic, 2007 による引用)。

 


これは、シェリング (Schelling, 1968)以来、特定犠牲者効果 (the identifiable effect)として知られることになった現象と関連している。

 


災害や紛争などで大勢の犠牲者が出たとき、ある特定の犠牲者がメディアによって取り上げられると、そこに多大な注意と資源が集中する。

 


人々はその彼(女)の犠牲/救出に涙し安堵し、追悼や激励の言葉や贈り物や支援を送る。

 


1987 年アメリカテキサスでジェシカという名前の小さな女の子が狭い井戸に落ちたとき、米国民はその後48時間に及ぶ救出劇を固唾を飲んで見守り、この間に寄せられた義援金は約70万ドルに上ったという。

 


この金額は数百人以上の子どもの栄養状態改善経費に十分相当する。

 


日本でも、特定の犠牲者へ支援が集中する同様の現象が多々起きている。

 


なぜ特定の犠牲者個人に対しては、人々は善良であるのか。

 


スロヴィック(Slovic, 2007) は、数の問題あるいは想像可能性という観点からこれを考えようとした。

 


たとえば10万人の苦しみと聞いても、私たちはその数字が意味するところをなかなか想像しにくい。

 


その想像しがたさを補うために、多数の靴を並べたりすることによって犠牲者の多さを具体的な形で可視化する方法があるくらいである。

 


ある実験では、ある1人の犠牲者の話を呈示す

る条件、犠牲者数だけを呈示する条件、それら2タイプの情報を合わせて呈示する条件を設け、実験参加者に寄付を要請した。

 


その結果、特定化された犠牲者条件が、他の2条件に比べて有意に高い寄付額を引き出すことが明らかになった(Small et al, 2007)。

 


さまざまな支援を掲げるNGOなどの団体は、いかに資金を集めるかが課題であるが、広報において特定の人物の物語をアピールする手法はよく用いられている。

 


人々の関心を引き、態度をより支援的なものに変容させ、実際の協力を得るためには、特定犠牲者効果を利用するのが有効なのかもしれない。

 


他方、それによって人々の問題に対する本質的理解が妨げられたり歪められたりする可能性がある。

 


下記の本を参考にしました

 


『心理学』新版

   無藤 隆 他2名

   有斐閣