とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

現代の「疎外された労働」とは

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 現代版「疎外された労働」とは

 


感情労働の困難さは、さまざまな感情の管理や演技を日常的に求められるために、自分の本当の感情や感じ方が何かわからなくなり、しばしばアイデンティティの混乱に陥ることです。

 


感情労働とは、職務内容の一つとして明示的あるいは暗示的に適切および不適切な感情と、その表出が規定されている職業において、規範的になされる感情管理であり、それは労働生産物それ自体が感情管理によって成立するような直接的で対人的 (face-to-face)なサービス業務(接客、医療、看護、教育など)のことです。

 


ホックシールドは、感情労働者がその労働に支払う代償をいくつか挙げています。

 


まず第一に、「労働者があまりにも一心不乱に仕事に献身し、そのため燃え尽きてしまう危険性」のあるケースです。

 


これは職務上、期待される感情規則に過剰に同一化することによって精神的に疲弊してしまうことです。

 


第二に、「労働者は明らかに自分自身を職務と切り離しており、燃え尽きてしまう可能性は少ないが、しかし自分を自分の職務から切り離していることで「私は演技をしているのであって不正直だ」と自分を非難する可能性」のあるケースです。

 


これは、「感情管理」のうち「表層演技」をする者に多くみられる「罪の意識」、すなわち「自分は感じているフリ(演出)をしているだけだ」「自分は人間として誠実ではない」という自己嫌悪の源泉となります。

 


第三に、「自分の演技から自分を区別しており、そのことで自分を責めることもなく、自分の職務は演じる能力を積極的に必要としているのだと考えるのだが、 (中略)演技することから完全に疎外され、「私たちはただ夢を売っているだけだ」と皮肉な考えを持ってしまう危険」のあるケースです。

 


これは「深層演技」をする労働者にみられる「嘘の意識」を導き出します。深層演技をすっかり身につけた感情労働者は、「感じるべきこと」を実際に内面で「感じてしまう」ので、そんな自分自身に「嘘くささ」を禁じえないのです。

 


そして、「嘘」ではない「本当の自分」は何なのか躍起になって探していかなければならなくなります(ホックシールド、前掲書、214ページ)。

 


こうして感情を意のままに操る熟達した感情労働者ほど、今度は自分自身のアイデンティティを管理する困難に直面することになります。

 


こうした状況は、マルクスが19世紀の労働者について考察した「疎外された労働」の現代版といえるでしょう。

 


マルクスはこう書いていました。疎外は、たんに生産の結果においてだけではなく、生産の行為のうちにも、生産的活動そのものの内部においても現われる」(マルクス『経済学・哲学草稿』岩波文庫、91ページ、傍点原文)。

 


つまり、生産手段をもたない資本主義社会の労働者が工場で生産したものは、生産手段をもつ資本家のものとなってしまう。

 


たとえば、壁紙工場で少年工が規格どおりに作

った壁紙は会社のものとして売られていくのです。こうして生産したものが他者に売り渡される場合、労働者の労働は自分で創意工夫のできる「自己活動」ではありえなくなります。

 


壁紙工場では自分の気に入った壁紙は作ることはできず、誰かがデザインした売れ筋の壁紙を工場長にいわれるままに作り続けなければなりません。

 


同様に、現代の感情労働者も自己の「感情」を企業に管理されているので、その労働者の感情はもはや自分で意のままにすることができません。

 


そればかりか「人も自分も欺いている」といった罪の意識に苛まれたり、「本当の自分」がわからなくなってしまう ホックシールドの言葉でいうと「人格にとって深くかつ必須のものとして私たちが重んじている自己の源泉をもしばしば使い込む」のです。

 


感想

 


マルクスが言っていたことが、現代でも当てはまると思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『ライフイベントの社会学

   片瀬 一男著

 世界思想社