とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

 友情の守備範囲

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 老彫刻家たちの友情

 


1995 年の NHK スペシャルで取り上げられた佐藤忠良舟越保武 という二人の彫刻家のエピソードである(この番組は齋藤 で紹介されている。

 


佐藤と舟越は美術学校の同級生であり、60年以上の付き合いになるが(当時二人とも83歳)、若いころから強烈なライバル意識をもって高めあい、あるときは一緒に新しい協会を作って共闘し、あるときは賞を競いあうことで、日本の彫刻界をリードしてきた人物である。

 


この番組を紹介した齋藤孝は、二人の関係性を「なれあわない距離感」と評している。

 


事実彼らは近所に住んでいてもめったに会わず、年に一度の協会展で自信作をぶつけあい、時折手紙を書くという形で交信してきた。

 


たとえば佐藤が過労で倒れたとき、舟越は次のような強烈な励ましの手紙を送っている。

 


貴兄が本当に寝込んだりしたら私が困る。

 


忠良が仕事の熱意に集中していると思うことで、私も仕事ができる。

 


半世紀もつづいて私を引っぱってくれている。

 


私から忠良の意識をぬいたらカラッポになる。 

 


のんびりした忠良というのもおかしなものだ。

 


シゴトノホカハサボッテクレ。

 


これは、見まいではない、私の真じめなお願いです。

 


このあと舟越も脳梗塞で倒れてしまうのだが、そのときは佐藤が「お互いさいごまで、のたうち回ろう。僕も後ろから、のたうち回る。息を引き取るまで」という闘魂むき出しのエールを送っている。

 


こうしたやりとりからも、二人の関係が俗っぽいなれあいとは無縁だったことがわかるだろう。

 


しかし、彼らが長年にわたり切磋琢磨しあうことができたのは、決して安全な場所から互いの人格を尊重しあっていたからではあるまい。

 


そこには分別をわきまえた対等な関係というよりも、若者組や労働階級の若者たちと同じような、互いに火花を散らす張りあいの要素がみなぎっている。

 


ここで注目したいのは、二人がそれぞれ相手に対して独特な角度の視線を向けているということである。

 


すなわち、舟越は佐藤のことを「ぼくの左前方30度をあるく男」と呼び、佐藤もまた舟越の

ことを「けっして逃がしてはいけない闘いの相手」と呼んでいるのだ。

 


この互いが互いの背中を睨みながら前に進む微妙な距離の取り方が、彼らの友人関係を創造的なものにしているのではないだろうか。

 


つまり、一見クールに見える二人が共に高めあう関係を築くことができたのは、相手の優れたところに深く魅了され、かつそれに負けじと張りあおうとする、喧嘩コミュニケーションをつねに交

わしているからだと思われる。

 


つまり、立場が対等であるかとか互いの人格が尊重されているかなどということは、真に強靭な友人関係にとっては大した問題でないのだ。

 


佐藤と舟越の例は、そのことをじつに感動的な形で教えてくれる。

 


カントは「尊敬」を友情の必須条件と考えたが、「尊敬」とはただ友人から遠ざかることをさすのではなく、友人のことを「下から仰ぎ見る」あるいは「後方から眺める」という非対称的なかかわり方をさすのではないか。

 


そして友人関係が創造的なものであるためには、互いの領分を堅守することよりも、自分の同志と認めたその友人にどこまでもこだわり、友人のいる地点に向かって少しでも「上」や「前」に進もうとすることのほうがはるかに大切だと思われる。

 


これこそ、友に対する「愛」というものではないだろうか。

 


感想

 


友情が苦手なぼくにはあまり理解できませんが、ドラマや映画のような話はあるようだと思いました。

 

 

 

下記の本を参考にしました 

 


『コミュニケーションの社会学

 長谷 正人 他1名

 有斐閣アルマ