とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

 努力が報われる社会か

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。

 


感想も書きたいと思います。

 


話題 近現代は努力が報われる社会か

 


江戸時代はともかく、とくに近代社会は、生得的な「属性」(出身階層など)ではなく、その後の努力によってあげた「業績」(学業成績など)をもとに地位を配分する社会です。

 


これをイギリスの社会学者M・ヤング(「メリトクラシーの法則」至誠堂新書)は「メリトクラシー」の社会と呼びました。

 


それは、メリットのある人が高い地位につく社会です。

 


ここでいう「メリット」とは「能力+努力」を意味しますから、「メリトクラシー」の社会とは、能力のある人が努力して業績を上げる―盗賊をたくさん捕まえる、新車をたくさん売る―と昇進できる社会です。

 


つまり、個人は出身階層(親の職業)によって、差別されず、学校教育で努力し、獲得した能力―それは成績・学歴によって示されます―によって自分の所属階層(職業)を選択することができる社会です。

 


では、なぜ近代社会はメリトクラシーの社会になったのでしょうか。

 


江戸時代のような身分制社会は、属性主義の社会すなわち個人の属性にもとづいて社会的地位を配分する社会でした。

 


ここでいう「属性」とは、個人が生得的に保有し、その後の努力によって獲得・変更できない特性で、たとえば性別・人種・出身階層―どんな家に生まれたか―などです。

 


だから、「農民の子は農民に、武士の子は武士に」というように、職業は親から子どもへと継承・世襲される社会です。

 


出身階層(親の職業階層)が所属階層(子どもの職業階層)を決定するのが江戸期でした。

 


この属性主義は、近代的価値に照らしてみたときにいくつもの問題点があります。

 


まず、個人に職業の選択の自由がないから自由主義と対立するうえに、ある職業につく機会が特定の階層の出身者に制限され、すべての人に平等に開かれていないので平等主義と対立します。

 


またある職業にふさわしい能力をもった個人が、必ずしもその職業につくとは限らないために効率主義と対立します。

 


というわけで、個人的にも社会的にも問題がありました。

 


これに対して、近代社会は業績主義の社会で、個人のメリットにもとづいて社会的地位を配分する社会です。

 


属性に対して、業績とは、個人がその後の努力によって選択したり、獲得・変更できる特性を意味します。

 


学校の成績、企業での仕事上の業績がこれに当たります。

 


したがって、近代社会においては、職業は親から子どもへと継承・世襲されるのではなく、子どもが学校卒業後、自分で選択するものとなります。

 


この社会では、出身階層と所属階層の間に学校教育が介入することで、出身階層によって所属階層が決まることを妨げることが可能です。

 


感想

 


学校が努力が報われる社会を支えていた面もありますが、その逆に機能している面もあると思いました。

 


下記の本を参考にしました

 


『ライフイベントの社会学

   片瀬 一男著

 世界思想社