こんにちは。冨樫純です。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
「児童労働否定」の害悪
「社会の敵」リストをつくったとしたら、「子どもをはたらかせる資本家」は必ずやトップ10に名を連ねるだろう。
彼らは邪悪で残酷でずる賢く、なにも知らない子どもたちから搾取するのだ。
一般大衆のイメージでは、子どもの労働は奴隷労働に等しく、彼らを雇う者は、奴隷所有者と大差ない。
だが例によって、このものの見方は間違っている。ほとんどの人が支持する単純な正義というものは、たいていの場合、最初から最後までデタラメなのである。
子どもを雇う資本家は、ほかの人たちと同様に、人が好くて親切で善意に溢れている。そればかりでなく、長く栄光ある労働の歴史において、児童労働は誇るべきもののひとつである。
では、悪者はどこにいるのだろうか。それは子どもたちの雇用主ではなく、〝児童労働〟の自由市場を禁じている人々である。
この似非ヒューマニストたちこそが、彼らのおかげで仕事を奪われた子どもたちの目を覆わんばかりの貧困に責任を負うべきである。
貧困が広範囲の児童労働を必要とした過去においてその被害はより甚大だったとしても、現在でもまだ悲惨な境遇におかれた人々がたくさんいる。
子どもたちがはたらくのを禁じることは、彼らが生きるのを妨害しているのと同じである。
「子どもをはたらかせる資本家」を擁護する第一の理由は、彼らはだれに対してもはたらくことを強制していない、ということだ。
労働についてのあらゆる合意は、完全に自発的なものである。
お互い得になると思わないかぎり、彼らが合意に達することはない。
ここで当然、次のような疑問が出されるだろう。
「子ども相手の労働契約はほんとうに"自発的”と言えるのか? 子どもには、そのような契約を結ぶ能力が欠けているのではないか?」
この問いにこたえるためには、まず最初に「子どもとはなにか」を正しく定義しなければならない。
もちろんこれは、完全に解決されたことのない古くからの難問である。そこで、「子どもと大人を分かつ」とされる年齢をいくつか取り上げ、順に検討していくことにしよう。
子どもと大人のあいだの境界線は、多くの宗教によって、かなり早い時期に引かれている。
こうしたイニシエーションは、10代のはじめか、あるいはもっと早く行われ、共同体のメンバーは
この儀式によって 「大人」になると定められている。
しかしたとえば13歳の子どもは、ごく少数の例外を除けばいまだ成熟しておらず、無力で、独りで生きていくのに必要な技術を知らないでいる。
それゆえにこの定義は採用できない。
徴兵資格を得る18歳が次の候補だが、これも「大人」の定義としてはいくつか問題がある。
そもそも戦争に行くことが、大人とどんな関係があるのだろう。戦場での行動は、ふだん"大人の態度〟と考えられているものとはおよそ対極にある。
命令にひたすら従うだけの人間 (これこそまさに兵士の本質である)を、いったいだれが「大人」と呼ぶだろう。
次に、国家による強制の典型である徴兵が、命令に従うことの基礎になっているという矛盾がある。
自分の意思でオーケストラの一員となった音楽家が指揮者の指示に従うように、自らすすんで入隊した軍人が、「大人」として上官の命令に服従するのはなんの不思議もない。
しかしそもそも徴兵には「自分の意思」がないのだから、それをもって大人の基準にするのは無理がある。
われわれは、「何歳になったら子どもは自分の意思で契約を結ぶことができるのか」を考えているのだ。
大人への年齢のもっとも遅い候補は、選挙権を得る21歳だろう(アメリカの選挙権は現在、18歳まで引き下げられている)。
だがこれさえも厳しい批判を免れない。
第一の疑問は、10歳の子どものなかにさえ―その数は多くないとしても政治的、社会的、歴史的、経済的な問題に関する正しい知識を持ち、21歳以上の有権者より「賢明」な投票ができる小学生がいることだ。
もしそうならば、賢い10歳のための、いや何歳であっても賢い子どもたちのための公民権運動をいますぐ始めるべきだろう。
だがこれでは、「大人にのみ投票を許可する」という最初の話に合わなくなってしまう。
この堂々めぐりから、21歳という年齢も恣意的なものにすぎないことがわかる。
感想
一般的な違い、おもしろかった。
大人と子どもの境界線は曖昧だと思います。
下記の本を参考にしました
『不道徳教育』
ブロック.W 他1名