こんにちは。冨樫純です。
「死刑執行へのサイン」についてのコラムを紹介します。
確かに、大臣の立場だったら、同じように悩んでいたと思います。
死刑を執行するには法務大臣のサインが必要である。
もちろん、裁判で慎重な検討がくわえられた後のことであり、また、大臣が死刑執行を停止できるわけでもないとはいえ、やはりサインをするときには、苦悩するものであるようだ。
命令書に好き好んでハンコを押す人はいないよ。
ボクは死刑の決裁は大臣の職責として割り切っていた。起案ができると手続き上の手落ちがないかどうかを慎重に調べるだけだが、記録を読むと死刑にされても仕方のないケースばかりだ。感情的にしのびないという人もいるが、だれかが決済しなければ、どうにもならないものなのだ。
だからボクはハンコを押すときなんの感情も持たなかった。法はちゃちな感情を超越したきびしいものだよ。(小島徹三元法務大臣・サンデー毎日 1962年 12月16日号)。
法務大臣という職を引き受けた以上、法律上の義務を果たすのは当然であると考えたのであろう。
しかし、個人的感情との葛藤に悩まなかったわけでないのは、わざわざ「ちゃちな感情」といっていることに秘められているようだ。
近年では、左藤恵元法務大臣は、自分の信仰上の立場からサインをせず、千葉景子元法務大臣は辞任直前になってやっと署名した。
これは、個人的立場を、法律上の職務に優先させたことになる。
小島元法務大臣とは逆に、職務上の義務不履行で悩まなかったのだろうか。
下記の本を参考にしました
『いちばんやさしい憲法入門 』
初宿 正典 他2名
有斐閣アルマ