こんにちは。冨樫純です。
「文学にみる高齢期の性欲」についてのコラムを紹介します。
たしかに、 その性的欲望のとらえ方が男性サイドのものとして描かれ過ぎている感じはしました。
前山咲子が死んで私が涙を流したのは事実であった。それは、私の生涯の時の経過に、はっきりと区切りをつけるような事件であった。
しかも私は、咲子の死についての悲しみをその娘の章子と抱き合って嘆いているうち、衝動に駆られて章子の身体に触れたのだ。
その事実が行われたことを知っているのは、私と章子だけである。
今日のことは私の身に起ったことであるが、人生には、起ってならないはずのことがしばしば起るものであり、その衝撃に耐え、それを人目にふれぬように処理し、そこをさりげなく通りすぎることが生きることだ、と言っていいほどなのだ。
…自分のした事をも自然現象と同じように寛大にゆるしながら、もの静かに落ちついてその場面から立ちのくことに、私は人間の熟成というものを感ずる。
男というものは60歳になっても、まだ性の攻撃衝動から抜け出すことができないのだなあ、という気持ちと、ここまで来てなお、こんな不意撃ちを加えるこの本能は、道徳意識や自制力などで簡単におさえ切れるものでないのだ、という悟りに似たあきらめの気持があった。
「生きている間は何が起るか分からない」という言葉がつぶやきとなって私の口にのぼった。
それは 「生きている間は何をするか分からない」と言った方が正確だった。
私にとってその言葉は、「生きて いるうちは救いなどありはしない」という意味だった」
伊藤整『変容』より
「老年期の人びとは性的欲望を抱かない」 という見方にアンチテーゼを提示したのが、伊藤整の小説であった。
亡くなった自分の愛人の娘が泣き崩れるのを抱
きかかえたとき、主人公の男性はその娘にも性的欲望を感じたのであった。
日本が高度経済成長を終え、高齢化社会に突入する1968年に初出として書かれたこの小説も、その後40年近くが経過すると、 その性的欲望のとらえ方が男性サイドのものとして描かれたにすぎないといえるのかもしれない。
女性の性欲の肯定、性行為の多様さとその意義など、性に関する認識も時代とともに変容してきている。
高齢期での性愛へのジェンダー差異を考えさせる作品として中里恒子 「時雨の記」(文春文庫) があり、他方、高齢女性たちの性的欲望や嫉妬を描いた桃谷方子「百合祭」(講談社文庫)といった作品もある。
下記の本を参考にしました
『社会学』
新版 (New Liberal Arts Selection)
長谷川 公一 他2名