こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
思いこみとしてのセックス
「自由な」関係であるはずの恋愛が、無意識のうちにも社会の定めた「型」にはまらずには不安定な気がするのと同じように、「自由な」 セックスにもジェンダーが深く刻印される。
性にかかわる規範が女性に対してより厳しい「ダブル・スタンダード」は、今も決して消滅してはいないものの、若い人たちなら男性も女性も、恋愛とセックスは「自然」なつながりだと考えるだろう。
「本当に愛している」なら性交を忌避するのはむしろ不自然に映る。
深い愛情の結果として、恋人の互いの結びつきのもっとも深い象徴としてセックスにいたることはすばらしいことであり、美しいことであることを私たちは疑わない。
しかし、「セックス=最高の愛情表現」という考え方自体、ジェンダーの視点から問い直してみると、異なる様相が見えてくる。
考えてみてほしい、セックスするときの「理由」はいったい何だろう?
「恋人同士だから」「愛しているから」というのが一番オーソドックスな答えだろうが、考えてみれば、それは直接の理由にはなっていない。
しかし、かといって、「セックスしたいから」という理由は何となくあからさますぎるようで、そんなことをいわれたら、「身体だけが目的」のように聞こえるかもしれない。
「一緒にいたいから」 「淋しいから」 「もうだいぶ長くつきあったからセックスしないのは不自然」「彼が望むから、断ると嫌われるかも」「高価なプレゼントを貰ったから」。
立場によっては、「夫の求めを断るわけにはいかないから.....」 「養ってもらってるんだから・・・・」などという場合もあるだろう。
「セックス=最高の愛情表現」という考え方からすると、こんな理由でセックスをするのは不純、未熟にも思えるかもしれない。
歴史的に見れば、「貞操」観念や「純潔」思想を
押しつけられてきた女性にとって、セクシュアリティの自由と自己決定は、 めざされるべき「解放」だった。
大正期初めの平塚らいてうらの「新しい女」たちも、第2波フェミニズムと呼ばれる「ウーマンリブ」の女性たちも、それを求めて果敢に闘ってきた。
そう考えると、自分の性的欲求をもてなかったり自覚できなかったりするのは、「遅れた」「抑圧的」な意識のあらわれにも思えるかもしれない。
しかしそんな「常識」に反し、江原由美子は、性的関係を「両性が相互に性的欲望を持つ関係である」とみなすことの問題性を鋭く指摘し、そうしたいわば「対等」で「政治的に正しい」ように見えるセックス観に、抜きがたいジェンダーの差別の構造があることを指摘する。
というのも、私たちの社会では、きわめて多くの場合、男性が性的欲望の 「主体」であるのに対し、女性は性的欲望の「対象」として位置づけられる。
そんな社会にありながら、「互いに対等に欲望しあう」ことを理念とするのは、あたかも性的関係がジェンダーに中立にあるような錯覚をつくりだすことにほかならない。
そのうえ、女性がより関心を集中させがちな「愛」や「関係性」と直結した性がもっとも価値あるものとされているのは、差別の構造を維持していくのに手を貸すトリックであるとさえいえるかもしれない。
女性が性的対象として見られがちなことは「自然」でも何でもないが、セックスがつねに「愛情
の表現」であるはずだ、あるべきだ、という観念は、理想的で正しいように見えて、私たちを縛る
思いこみでもある。
感想
私たちの社会では、きわめて多くの場合、男性が性的欲望の 「主体」であるのに対し、女性は性的欲望の「対象」として位置づけられるという。
当然のこととしてこう思っていましたが、これも対等ではないようです。
下記の本を参考にしました
伊藤公雄 牟田和恵編著