とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

先祖があって私がいる?

こんにちは。冨樫純です。


「親族ネットワーク内のリレー走者」についてのコラムを紹介します。


ご先祖様を大事にしなければいけないとか、墓参りをする習慣は、ここから来ているのではないかと思いました。


人間が相互に、徹底的に依存し合っている、という事実を一般の人にはっきり理解してもらうことは、今日依然として容易なことではない。


ある人間の行為の意味はすべて、かれが他人にとってどのような意味を持つ存在なのかによって決まるということ(しかもこの場合の他人とは、同時代人のみならず未来の世代の人々も含まれる)。


言い換えれば、ひとりの人間は幾世代にもわたる人間社会の存続に依存しているという事実は、数ある人間相互の基本的依存関係のなかのひとつに挙げられる。


現代人は、しょっちゅう自分は孤独だ、他人から完全に独立した人間だ、と思っている。


そのとき、これのみで自足しうると考えられる自分だけの関心事を追求することが、 人間のなしうるもっとも有意義なことのように現代人のかれには思えてくるのである。


人間は他の人間たちと網の目のように互いに依存し合う関係の中にいるということを理解するのは、さしあたり、かなり難しい。


人間は幾多の世代から成る連綿たる鎖の中の限定された環なのであり、一定の区間にわたり、自分が握って走り続けてきた松明を最後には次に控えた走者へ引き継ぐべく手渡す。


あの松明リレー競争におけるひとりの走者にほかならないのだということに気づく者は、したがってめったにいないのである。N. エリアス「死にゆく者の孤独」 (Elias 1982=1990: 52-54)

 

結婚や出産がかならずしも生きる前提ではないという時代に入りつつあるが、私たちが両親をはじめとする先祖のネットワークの結果として生まれてくることは事実であり、また次世代以降の子孫のネットワーク形成の可能性をもっていることも事実である。


過去と未来に運なる親族ネットワークの交点に今自分が存在し、それはエリアスの言い方に倣えば松明のリレー走者ということになる。


家族と考える範域が時代や社会により異なることをふまえれば、家族を集団としてとらえる視点だけでなく、家族を個人ネットワークの偶然の集積としてとらえる視点が重要になってきている。


下記の本を参考にしました


社会学

   新版 (New Liberal Arts Selection)

  長谷川 公一 他2名

  有斐閣