こんにちは。冨樫純です。
「公共選択理論と公共性」についてのコラムを紹介します。
人々が投票に行く理由は、特定の候補者を当選させるためよりも、代表制デモクラシーを維持すべ
きという公共心のようなものに促されているからだ、という。
このような指摘が、おもしろかった。
ぼくが投票する際も、公共心に促されている側面はあると思いました。
現代の政治学において公共性が論じられる仕方として、公共選択理論(public choice theory) とよばれる研究分野がある。
そこでは、従来はさまざまな意味で公共的と考えられてきた選択や決定について、経済学的な「合理的な個人」のモデルを用いて分析·説明し、さらには規範的なモデルを示すことが試みられている。
よく知られた例の一つは、投票の合理的選択モデルとよばれるものである(久米ほか, 2011)。選挙での投票は公共的な活動とみなされるのが普通だろう。
しかしながら、投票するか棄権するか、どの候補
者(政党)に投票するかを、個々の有権者による個人的で合理的な選択とみなすことも可能である。
個人が 「自己の効用を最大化するように行動する」という合理的選択の前提からすると、有権者は、投票によって得られる期待効用が、投票のコストを上回るときに投票すると考えられる。
支持する候補者の当選から得られる効用が大きく、しかも自分の一票が決め手となってその候補者が当選する (自分が投票しないと落選する)と考えれば、合理的な人はコストをいとわずに投票するだろう。
だが実際には、多くの場合は棄権することが最も合理的な選択となる。
なぜなら、自分の一票が選挙結果を左右することなど、ほとんど考えられないからである。
それではなぜ人々は投票に行くのか。
しばしばなされる説明は、特定の候補者を当選させるためよりも、代表制デモクラシーを維持すべ
きという公共心のようなものに促されているからだ、というものである。
しかし、R. タック(Tuck,2008)、が指摘するように、この説明には致命的な欠点がある。
デモクラシーを崩壊させないためには棄権しないことが必要だとしても、それは個々の有権者が必ず投票しなければならないことを意味しない。
自分の一票が誰かを当選させる決め手となる確率が小さいのとまったく同じように、自分の一票がデモクラシーを維持する決め手となる確率も限りなく小さい。
こう考えると、デモクラシーを高く評価し、愛着や忠誠心をもっている個人でさえも、棄権するほうが合理的であるかもしれない。
投票の合理的選択モデルにみられるこうしたパラドクスは、不特定多数の人々(集団)にかかわる公共的な事柄に、個人はなぜ、どのようにして関心をもち貢献するのかという、公共性についての未解決の問題に光を当てている。
この問題の根が深いのは、それがいわゆる「利己的な個人」 の欠陥にはとどまらないからである。
「公共心」を前提としてもなお、個人と公共性の関係は完全には明らかにならないかもしれないのである。
下記の本を参考にしました
『現代政治理論』 新版
川崎 修 他1名
有斐閣アルマ