こんにちは。冨樫純です。
「公私の区別の可変性」についてのコラムを紹介します。
現代でも公私の区別が曖昧な場面はあると思いました。
例えば、政治活動やデモがそれにあたると思います。
私的領域と公共的領域の線引きの可変性という考えを支持する例を一つ挙げておこう。
桜井万里子は、ハーバーマスの公共性概念を援用しながら、古代ギリシア世界でも二つの領域の区別は従来考えられていたよりも暖味で、区別の線の引き直しの可能性が常にあったことを指摘している。
古代ギリシア語で「公共の」 を意味する形容詞は、実は二つあった。
一つはポリスに関わる厳密な意味での政治的領域、制度化された市民団の活動をさす語で、「デーモシオス」(dēmosios)という。
もう一つがコイノスである。 コイノスは厳密な意味では政治的領域(デーモシオス) にも私的領域(オイコス) にも属さない、「日常生活のレベルでの公的な領域」を意味した。
コイノスの世界は、多様な集団が並存する空間であって、ポリスの市民団からは排除されていた奴隷、外国人、女性といった人々も含まれていた。
こうした人々も、コイノスにおけるコミュニケーションの流れに加わることで、広い意味での政治に関与することも不可能ではなかったという例を桜井は紹介している(桜井,1997)。
重要なのは、桜井や岡本仁宏(古賀編,2004)も指摘するように、街頭に立って見知らぬ人々と対話するソクラテスは、デーモシオスの領域よりもむしろコイノスの領域での政治に従事していたということである。
このことは、政治理論がその歴史的な始原において、公式の公共性の世界ではなく、むしろ非公式の公共性の世界から出発し、 公私の線引きに揺さぶりをかけるものであったことを示唆している。
下記の本を参考にしました
『現代政治理論』 新版
川崎 修 他1名
有斐閣アルマ