とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

一人前になるとは

こんにちは。冨樫純です。


ある質問や疑問に答える形式で、解決の参考になりそうなことを書いていきます。

 

法律的なものです。


質問の内容は、主に女性目線からものです。


質問


高校卒業後あちこちで 「もう一人前だね」 とかいわれます。


成人式はまだですが、結婚もできるみたいだし、いったい「一人前」扱いは何歳からですか。


解答


一般的には20歳です。


法の世界では、「一人前」扱いの基準は場面により一律ではありません。


未成年者は心身ともに発達途上にあるということで、いくつかの場面で一定の年齢制限がおかれます。


なお、現在は20歳とされている成人年齢について、政府において18歳への引下げの方向が示されていますが、具体的な法制度の整備の時期等は未定です。


具体例


①経済活動など


品物を買ったりお金を借りたりという経済活動、つまり財産上の取引などに関しては、未成年者(現在は20歳未満とされています) については制限があります。


未成年者が財産上の契約をするには原則として法定代理人 (親権者、つまり親です)の同意が必要で、同意なしで行われた契約はそのことを理由に後から取り消すことができます(未成年者が何かをもらう場合などのように、未成年者に不利益とならない場合や、自分のこづかいで何かを買うような場合は、例外として、同意は不要です)。


未成年者は、社会経験が乏しいので1人で財産上の取引などを行うにはなお判断能力が十分でないことから、契約の際にこうしたサポートが必要とされますが、契約の当事者 (たとえば、 土地の買主や売主) となること自体には年齢の制限はありません。


他方で、バイク運転中に不注意から人にけがをさせたような場合の損害賠償責任については、責任能力(個人差があるものの、だいたい小学校卒業程度の判断能力) がそなわっていれば、未成年者でも本人が賠償義務を負い、責任能力がなければ本人に責任はなく、本人を監督すべき立場にある者(たとえば親) が賠償責任を負います。

 

また、未成年者でも15歳に達していれば自分で遺言をすることができます(いずれも民法)。


②結婚など

 

現在の民法では、未成年者でも、男性は18歳。

女性は16歳に達すれば、親の同意を得て結婚(婚姻) することができます。


ただし、男女で2歳の差が設けられている点について、今日では合理性がないということで、将来的には男女とも18歳に統一する意見が強いのですか、まだ実現していません。


また、これらの人が結婚をすると成年に達したものとみなされ1人で法律上の行為ができるようになりますが (成年擬制)、このような取扱いは、他の場面たとえば飲酒、喫煙、選挙権などには影響しません。


また、養子縁組については、15歳に達すれば自分の意思で養子になることができ、一方、20歳に達していれば養親となることができますが、特別養子の場合は、原則として養親は25歳以上であることが必要です。


③働く


15歳に達し中学校を卒業すれば労働者として働く

ことができます。


ただし、18歳未満の者には深夜労働が禁止され、

危険有害業務につくことが制限されています(労働基準法)。

 

下記の本を参考にしました


『ライフステージと法 』

  副田 隆重 他2名

  有斐閣アルマ

 

 

 

思いやりは道徳原則か

こんにちは。冨樫純です。


ある倫理的課題に対して、哲学者の見解も参考にして、ぼくなりの結論を書きます。


理由も書きたいと思います。


課題


思いやりは道徳原則か


結論


原則だと思います。


理由


相手と全く同じ立場に立つことは難しいとしても、やはり原則であると思います。


相手のきもちになってあげることが道徳の基本だという考え方は、東洋でも西洋で一も語られている。


「わが身をつねって人の痛さを知れ」と 諺に言うのは、痛さというものが経験しにくいからではなくて、他人の痛みをわれわれが分かってはいても度外視してしまうからだろう。


自分の痛みと他人の痛みとのパランスをとらなくてはならない。


これら対する意地悪な反論がある。


まず第一に「同様な状況におかれた同様な人すべてによる同じ行為」というものは、ごの世には存在しない。


所変われば、人変わる、時が移れば人情も移る。


行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの流れにはあらず。


君は同じ川に二度と足を踏み入れることができない。


厳密に「同じもの」が存在しない以上は、「同様な状況におかれた同様な人すべてによる同じ行為は同じに評価せよ」という原則は実行できな

い。


下記の本を参考にしました。


『現代倫理学入門 』

   加藤 尚武著

   講談社学術文庫

 

 

 

 

 

 

 

幸福の計算はできるのか

こんにちは。冨樫純です。


ある倫理的課題に対して、哲学者の見解も参考にして、ぼくなりの結論を書きます。

 

理由も書きたいと思います。


課題


幸福の計算はできるのか

 

結論


できない


理由


幸福は人により、時により、状況により変わるもので、各人の幸福(個人内比較)や多数の人の幸福(個人間比較)を加算することができない。


人口、金銭、エネルギー消費、食料としてのカロリー摂取量などは、加算できるが、「のびのびとした学校に通う幸福感」+「健康を維持する幸福感」+ 「社会に出て出世する幸福感」というような加算はできない。


加算ができるためには、あらゆる幸福に共通の要素が含まれていて、それが単位にならなければならない。


加算が可能であるためには、それぞれの価値が独立不変である必要があるだろう。


しかし、「食事の前のビール」と「食事の後のビール」では味が違うから、「食事+ビール」の加算は無意味である(マッキー「倫理学加藤尚武監訳、哲書房、一八五頁)。


一人の人生における幸福の分配の問題もある。


たとえ悲惨と幸福の量がそれぞれ等しくても、悲惨の後に幸福になる方が、幸福の後に悲惨になるよりも好ましいだろう。


下記の本を参考にしました。


『現代倫理学入門 』

   加藤 尚武著

   講談社学術文庫

 

 

 

エゴイズムと道徳

こんにちは。冨樫純です。


ある倫理的課題に対して、哲学者の見解も参考にして、ぼくなりの結論を書きます。


理由も書きたいと思います。


課題


エゴイズムに基づく行為は、全て道徳に反するか


結論


すべての道徳に反するわけではない


理由


① エゴイズムと道徳にそもそも関連がないから


道徳的行為は、利害を度外視しても「しなければならないこと」なのであって、幸福への要求やエゴイズムに基づくものではない。


②許容できるエゴイズムの限度があると思うから


どうしても決めておかなくてはならないのは、法律的、公共的に悪いと決められるのと、許されているものとの違いである。


「してよいこと」と「して悪いこと」の違いを明らかにするのが、倫理学の目的であって、言葉を換えれば「許容できるエゴイズムの限度を決めること」が、倫理学の課題である。


個人エゴもあれば企業エゴもある、地域エゴもある。


エゴイズムの許容限度を決めて、私的な生活領域に対して干渉する公共的な領域の限度を決めなくてはならない。


また、社会福祉制度のような公共機関から私的生活への好ましい干渉の限度も決めなくてはならない。


下記の本を参考にしました。


『現代倫理学入門 』

   加藤 尚武著

   講談社学術文庫

 

1人分しかない特効薬

こんにちは。冨樫純です。


ある倫理的課題に対して、哲学者の見解も参考にして、ぼくなりの結論を書きます。


理由も書きたいと思います。


課題


10人のエイズ患者に対して特効薬が一人分しかない時、誰に渡すか


結論


くじ引きと、均等割りが妥当だと思います。


選択肢(5つの配分方法)


10人の人が、エイズにかかったが、それを治す特効薬が一人分だけあるとする。


もちろん一人分の薬を10人で使ったのでは効かない。


どうしても一人を選び出す必要がある。


①くじ引きで決める。


②社会にもっとも貢献しそうな人、たとえば世界的なパイオリニストに与える。


③いちばん高い金額を払う人、たとえばアメリカの自動車会社の社長に売る。


④道徳的にもっともふさわしい人、たとえば犯罪で被害を受けた少女に与える。


⑤みんな死んでもいいから、均等にわける。


どの方法に従えば平等と言えるだろうか。


くじ引きと、均等割りならば平等だと思う人は多いだろう。


くじを引いてみたら、少女に被害を与えた犯人が当選したとする。


犯人が救われて、被害者が死ななければならないという結果が出る。


これが公平とか、平等とか言えるだろうか。


すると残るのはの均等割りである。


下記の本を参考にしました。


『現代倫理学入門 』

   加藤 尚武著

   講談社学術文庫

 

10人の命を救うために1人の人を殺すことは許されるか

こんにちは。冨樫純です。

 

ある倫理的課題に対して、哲学者の見解も参考にして、ぼくなりの結論を書きます。


理由も書きたいと思います。

 

課題


10人の命を救うために1人の人を殺すことは許されるか

 

結論


許される


理由


この世界では生存率を最大にせよというのが、正義の大原則である。


最大多数の最大生存という原理が道徳の基礎である。


行為は生存率の促進に役立つのに比例して正しく、生存率の減少を生み出すのに、比例して悪である。


善とは、生存率の増大と、死亡率の減少とを意味し、悪とは、死亡率の増大と、生存率の喪失とを意味する。


下記の本を参考にしました。


『現代倫理学入門 』

   加藤 尚武著

   講談社学術文庫

 

人を助けるために嘘をつくことは許されるか?

こんにちは。冨樫純です。


ある倫理的課題に対して、哲学者の見解も参考にして、ぼくなりの結論を書きます。


理由も書きたいと思います。


課題


人を助けるために嘘をつくことは許されるか?


結論


カントのいうように因果関係はないかもしれませんが、許されると思います。


やはり、相手の不利益になると考えられるからです。


理由


賛成派(常識的な見方)


キケロ(Marcus Tullius Cicero )前106年ー前43の「義務について」では、「約束した当人や相手の不利益になる場合には、約束は守らなくてもよい」(角南一郎訳、現代思潮社、17頁)という考えが述べられている。


キケロは約束が無条件に守られなければならないという主張は退ける。


①自分の側に極端な不利益が伴う時

②相手の側の不利益になる時

③約束が暴力や詐欺によって結ばれている時

④相手側に不誠実がある時には、約束は守らなくてよい。


嘘をついてよい場合も、これとほぼ同じだと考えてよいだろう。


誰もが認めざるをえない自分の基本的な利益を守るため、たとえば、


①夜、駐車場で骨折した時、人の助けを求めて「火事だ」と嘘をつく

②相手を救うため、たとえば、子どもに「苦く

ない」と嘘をついて薬を飲ませる

③相手が誠実でない時、たとえば無礼な訪問者に対して居留守を使う


反対派


大哲学者のカント(Immanuel Kant 一七ニ四I一八〇四)が「人の命を救うために嘘をつく」のは、正しくないと主張する。


「人間愛からなら嘘をついてもよいという誤った権利について」(1797年)で、「われわれの友人を人殺しが追いかけてきて、友人が家のなかに逃げ込まなかったかとわれわれに尋ねた場合、この人殺しに嘘をつくことは罪であろう」と言うのだ。


因果関係についてカントは「いない」と嘘をつけば友人が助かり、「いる」と真実を告げれば友人が殺されるという関係は成り立たないと主張する。


「いない」と嘘をついても、犯人と友人が出会い頭にぶつかって友人が殺されてしまうかもしれない。


「いる」と真実を告げても、その人はまんまと抜け出して不在かもしれない。


だから嘘をつけば友人が助かり、真実を語れば殺されるという因果関係はない。


「私が真実を語る→友人が殺される」という出来事があったとしても、このことは「私が友人を殺す」と同じ意味にはならない。


私の真実を語るという行為と友人の殺されるという結果との関係は偶然的である。


だから友人の側に私に嘘を言うべきだと主張する権利は発生しない。


下記の本を参考にしました。


『現代倫理学入門 』

   加藤 尚武著

   講談社学術文庫