とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

多読の是非

こんにちは。冨樫純です。


本を紹介します。


①この本を選んだ理由


思想から身近な問題を考えてみるというスタンスに興味を持ちました。


②こんな本です


『世界の思想書50冊から身近な疑問を解決する方        

 法を探してみた 』

    北畑淳也著

 フォレスト新書

 

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「仕事がつまらない」「将来のお金が不安」「死にたい」……


残酷な未来を生きるための知的武装


本書では、人が抱えるさまざまな疑問や悩みの答えを、古今東西思想書から探ります。


取り上げた名著は自分の人生に無関係に思えるものもあるかもしれません。


しかし、「思想」というものが、実は極めて身近であり、社会はもちろん、 我々の思考や生き方を深いレベルで縛っていることを実感するはずです。


たとえば……、


Q.どうしてマスコミは偏った報道ばかりするのか? →W.リップマン『世論』


Q.中国や韓国への差別意識はどこからきたのか? →杉田聡編『福沢諭吉朝鮮・中国・台湾論集「:国権拡張」「脱亜」の果て』


Q.金儲けは悪いことか→?ジェイン・ジェイコブズ『市場の倫理統治の倫理』


Q.仕事はなぜつらいのか→?シモーヌ・ヴェイユ『自由と社会的抑圧』


Q.成功者になる条件とは何か→?マックス・ヴェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神


Q.無能なリーダーが誕生するのはなぜか→?カール・マルクス『ルイ・ボナパルトブリュメール18日


③こんな言葉が印象に残りました


本を読んだ冊数を競うことはなんの意味もないどころか害悪ですらあるのです。


そのためには、じっくりと熟慮をするに足る

時間を確保する必要があります。


また、物を考える活動として本だけに没頭するのではなく(現実の世界に対する注視を避けるようなことがあってはならない〉のです。


読んだ内容をよく阻嘱し、自分の知識にするためには時間がかかるという彼の主張を尊重するならば、すべきことは決まってきます。


それは読む本を厳選することです。


なぜなら、〈人生は短く、時間と力には限りがあるから〉です。


それを裏付けるように彼は(読まずにすます技術が非常に重要)になるといいます。


具体的にその技術は(多数の読者がそのつどむさほり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないこと)を意味します。


特に手を出してはいけないのが、「今、大評判で次々と版を重ねても、1年で寿命が尽きる」ようなものなのです。


要するに、「ベストセラー」と調われるものを警戒せよということです。


(本文より引用)


④この本が気になった方への2冊はこちら


『その悩み、哲学者がすでに答えを出しています』

小林 昌平著

文響社


『哲学の名著50冊が1冊でざっと学べる』

   岡本 裕一朗著

 KADOKAWA


興味を持ってくれた方はいるでしょうか?

興味を持った方は、是非読んでみてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西洋における社会契約とは

こんにちは。冨樫純です。


「社会契約」についてのコラムを紹介します。


対等で自由な契約が当たりまえになった経緯を知り、契約の見方が少し変わりました。


西洋における契約論的思考は、ユダヤキリスト教における神と人民の間の契約、および中世封建社会における統治者 (君主) と被統治者(臣民)の間の支配服従契約という発想に遡ることも可能である。


契約である以上、当事者双方に権利と義務が生じ、その違反は契約自体の無効化につながるという発想は共通している。


とはいえ、近代社会契約論においては自然状態を想定し、自由で平等な個人が自らの自然権をより確実にするために契約を結ぶ点が強調される。


その場合、グロティウスやザミュエル. フォン·プーフェンドルフ (1632-94 年)などの古典的な統治契約論においてはなお、既存の君主の存在が前提となり、その君主が契約の一方の当事者となった。


これに対し、ホップズによってはじめて社会契約による主権的権力の設立が論じられた。


さらにロックは政府と人民の信託関係および抵抗、革命権を強調し、ついにルソーに至って市民相互の契約のみが社会契約であるとして、君主を契約の当事者から完全に排除した。


下記の本を参考にしました


『西洋政治思想史』

   宇野 重規著

   有斐閣アルマ

 

 

 

 

 

 

 

近代までの利益とは

こんにちは。冨樫純です。


「利益」についてのコラムを紹介します。


現代での「利益」は私的利益をイメージしますが、近代までは公共の利益のことを指していたようです。


少し、驚きました。

 

古代ローマキケロが国家を公共の利益によって結び付けられた人的集合として定義したように、人々に共通する利益や、社会全体にとっての利益という概念は、政治を考える上できわめて重要な意味をもってきた。

 

このような意味での公共の利益は、各個人や集団に特殊な利益である私的利益と対置されるが、私的利益が積極的に語られるのは近代を待たなければならなかった。


ちなみにアリストテレスは、共同体内部における等価交換を重視し、市民相互間の取引において3%の利子が生じることを否定的に論じている。


これに対し宗教内乱を経験した17世紀以降、宗教的な情念の噴出を抑止するためにも、むしろ経済的な利益や儲けの追求を肯定しようとする議論が登場する。


私的利益の追求活動を正面から認め、むしろその力を借りて秩序を作り出すことに関心が集まったのである。


経済学の創始者となったアダム·スミスは、利益をむしろ人々を結び付けるものとして論じている。


下記の本を参考にしました


『西洋政治思想史』

   宇野 重規著

   有斐閣アルマ

 

 

 

代表制の始まり

こんにちは。冨樫純です。


「代表制」についてのコラムを紹介します。


古代ギリシャにおいてもうすでに、課税という制度があったことに驚きました。


「本来デモクラシーは直接参加が望ましいが、現代国家ではすべての市民がーカ所に集まるのは不可能なので、その代わりに、代表者を通じて政治に参加する間接デモクラシーを採用している」といわれる。


とはいえ、代表という観念自体は、中世ヨーロッパの身分制議会という、古代ギリシアに生まれたデモクラシーとは全く異質な起源をもっている。


しかも身分制議会の場合、会議が召集される理由は、諸身分の代表が自らの意見を表明するという側面よりは、むしろ君主の側で課税に対する関係者の承認を取り付けるという側面の方が強かった。


その意味では、代表制は必ずしも民主的であるというわけではない。


その限りでは、代議制デモクラシーというのは、ある種独特な組み合わせであり、本当にデモクラシーと呼べるのかについては、再検討の余地がある。


現代においてなお、議会とは国民の代表が自らの意志を表明する場というよりも、政府からの課税の提案に対し、関係者があれこれ異議を申立てる場なのかもしれない。


下記の本を参考にしました


『西洋政治思想史』

   宇野 重規著

   有斐閣アルマ

 

 

 

 

 

 

 

共通善とは

こんにちは。冨樫純です。


「共通善」についてのコラムを紹介します。


日本の政治はこのような「共通善」を目指しているように見えますが、どこらしら偏ったところもあり、マスコミや野党の批判の的になっていると感じます。


アリストテレスキケロ、そしてトマス·アクィナスから現代アメリカのサンデルらコミュニタリアンと呼ばれる理論家に至るまで、西洋政治思想史において繰り返し取り上げられてきた概念の一つに共通善がある。


この言葉は文字通り、政治的共同体の構成員に共有された善のことであり、特定の個人や集団にとっての善とは区別される。


政治的共同体の存在意義はまさに共通善の実現にあると考えられてきた。


これに対して、共通善などというものは存在せず、政治の目的は一人一人の個人にとっての善の実現と、その調整に尽きるという自由主義的な考え方も存在する。


また、共通善といっても、はたしてそれは共同体の構成員にとっての善を集積したものなのか、さらに、ある共同体にとっての共通善は、他の共同体や人類全体の共通善と衝突することがありうるかなどをめぐって、多様な理解がありうる。


下記の本を参考にしました


『西洋政治思想史』

   宇野 重規著

   有斐閣アルマ

 

 

 

法の支配と法治主義

こんにちは。冨樫純です。


「法の支配 」についてのコラムを紹介します。


「政治や行政が法律に基づいて行われている」とよく言われますが、この思想から来ていると思いました。


統治される者だけでなく、統治する者もまた、より高次の法によって拘束されなければならないという考え方は「法の支配」 と呼ばれ、行政はすべて法律によってなされなければならないとする「法治主義 (rule by law)」と区別される。


法治主義が、行政はあくまで法律の枠内でなされるべきであるとするのみで、法律の内容に立ち入らないのに対し、法の支配においては、法律をもってしても犯しえない権利があり、これを自然法憲法などが規定していると考える。


このような考え方は、君主であっても決して自らの意志をすべてに貫徹させることができるわけでなく、歴史的に認められた臣民の権利を守るべきであるとした封建社会における慣習法の伝統に由来する。


下記の本を参考にしました


『西洋政治思想史』

   宇野 重規著

   有斐閣アルマ

 

 

 

古代ギリシャの平等

こんにちは。冨樫純です。


「平等」についてのコラムを紹介します。


奴隷の存在が前提としてある時代での「平等」が、市民間に限られていたところが、なるほどと感じました。


アリストテレスは 「等しいものを等しく扱う」ことを正義の本質とみなす一方で、人間にはその本性において奴隷がふさわしい者もいるとして奴隷制を擁護した。


古代ギリシアのポリス世界においては、たしかに

平等が強調されたが、その場合の平等とは市民間に限られるものであった。


奴隷の存在はあくまで自然なものとされたのである。


その後、ストア派の哲学者は奴隷を含めた人間の平等を説いた。


ポリスという活躍の場を失った彼らは、その代償として、自然法とすべての人間の平等という理念を手に入れたのである。


とはいえ、ストア派の平等はあくまで知識人の理念というレベルにとどまった。


これに対し、初期キリスト教会は神の前の人間の平等を、より具体的な教団の諸活動において実現したといえるだろう。


下記の本を参考にしました


『西洋政治思想史』

   宇野 重規著

   有斐閣アルマ