とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

判断材料の提供

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


判断材料の提供

 


私たちが言葉を使う目的の一つは情報伝達である。

体験を言葉にして伝えることで、それを体験していない人にも「その体験がどのようであるか」が伝わるのだ。

 


たとえば、他人から「あそこに新しくできたラーメン屋は味噌ラーメン専門店だったよ」と聞けば、実際に行かなくても、その店に行けば味噌ラーメンが食べられる、豚骨ラーメンや醬油ラーメンは食べられない、と知ることができる。

 


こうした情報は自分が何を食べるかを判断するための材料となるだろう。それを参考にすることで、ラーメンが食べたいときに「あの店に行ってみよう」と思えるし、ラーメンは食べたいけど味噌ラーメンの気分ではないときには 「あの店ではない」と判断できるようになるのだ。

 


さらに、もしラーメン店について伝えてきた人が味に関して信頼できる人だったら、「おいしかった」「他では味わえない濃厚さ」(あるいは、「おいしくなかった」「どこにでもあるような味だった」)といった評価も参考にすることができる。

 


その情報に基づいて、おいしいラーメンが食べたいならそこに行こう(または、あの店はおいしくないから避けよう)と判断できるのだ。

 


以上のように、言語化された他人の体験について知ることで、自分では体験していない物事についての情報が得られ、その情報に基づいて自分の行動を決定することができる。

 


私たちが言葉を使う目的の一つは、このようにして情報を共有し、行動のための材料を増やすことである。

 


こうした目的は「赤」など幅のある言葉でも果たすことができる。たとえば、「新しく発表されたパソコンの色は赤だった」と聞いたとしよう。 それを聞いただけでは、どういったある。

 


色合いの赤なのかはわからない。だがそれでも、「緑だったら買おうと思っていたけど、赤ならやめとくか」と判断できる。同様に、「あの店のラーメンのスープはさっぱりしている」と聞いたら、具体的にどんな「さっぱり」なのかわからなくても、「今日はこってりしたものを食べたいから別の店に行こう」と決めることができる。

 


言葉による粗い区別の情報も判断材料になるのだ。

 


気をつけなければならないのは、言葉の目的は体験の代わりとなることではない、という点である。

 


たとえば、「濃厚で、コクがあって、口に入れてすぐコショウのにおいが鼻を抜け、後味の風味はすぐに消え」というように言葉を重ね、特定の料理の味にしか当てはまらない表現ができたとしよう。

 


その表現を耳にしたからといって、実際に味が感じられるわけではない。

 


だが、言葉が体験の代わりにならないことは、言葉の欠点ではない。

 


というのも言葉の役割は、その味を体験しに店に行くかどうかを決めるうえでの判断材料を与えることだからだ。

 


そして、その役割は先ほどの長い表現で十分果たせるだろう。

 


体験の代わりを言葉に求めるのは、言葉の目的を理解していない筋違いな願望なのである。

 


感想

 


言葉が体験の代わりにならないことは、言葉の欠点ではない。

 


というのも言葉の役割は、その味を体験しに店に行くかどうかを決めるうえでの判断材料を与えることだからだ。

 


という箇所がおもしろいと思いました。

 


たしかに、こういう見方もあると思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『美味しい』とは何か    

 食からひもとく美学入門

 源河 亨

 中公新書

 

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