こんにちは。冨樫純です。
哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
言葉にすべきではない
味やおいしさは言葉にできないと言われることがある。
あの頃あの店で食べたあのラーメンのおいしさは筆舌に尽くしがたい。どんなに言葉を連ねてもうまく捉えられない。他の店のラーメンもそれに似ているのだが、やはりどこか違う。
しかし、何が違うか言葉では説明できない。こういったもどかしい気持ちになったことはないだろうか。
おいしさは言葉にできないだけでなく、言葉にするべきではないという考えをもっている人もいるかもしれない。
何かを食べて言うべきなのは「おいしい」「まずい」くらいで、料理についてくどくど語るべきではないということだ。
というのも、味を言葉にすることで何かしら弊害が出てくると思われるからである。
たとえば、「言葉にすると自分の体験から大事なものが失われる」と考える人もいるかもしれない。
このラーメンには他にはない特別なおいしさがあるのに、それを「濃厚でコクがある」といったように言葉にすると、自分の体験が何か陳腐なものになった気がする。
というのも、「濃厚でコクがある」は他の店のラーメンにも当てはまるからだ。この店のラーメンは他とは違う特別なものであるのに、言葉では他との違いが出てこない。
その味の特別さが言葉の一般性によって奪われてしまうのである。こうした点から、自分が体験した特別さを大事にしたいなら味は言葉にすべきではないと考える人もいるだろう。
これとは別に、食に対してさまざまな言葉を使うのがいけすかないと思う人もいるかもしれない。
たとえば、「雨上がりの深い森でたちこめる腐葉土の香りのワイン」「自然栽培で育てられた野菜本来のたくましい味」といった言い回しを聞いても、どういう味がするのかよくわからない。
こうした表現は、感じた味を説明することよりも、自分がどれだけ言葉を知っているかを自慢するためになされている(味を表しているのではなく自分語りをしている)ように思えてくる。
気取った表現を使う人は、料理を味わうことより言葉を探すことに注意が向いていて、言ってみれば、味そのものに向き合ってない。
こうした評論家ぶった表現に嫌気がさすと、余計な言葉を喋るべきではないと思われるだろう。
以上の論点は食に限らない。絵画、音楽、演劇についてああだこうだ言うことで、鑑賞体験が陳腐なものになってしまうように思えることがある。
また、鑑賞された作品よりも鑑賞した自分自身に注意が向いてしまっているようなレビューもあるだろう。
そういった例をみると、体験を言葉にすることには弊害があると思えてくる。
感想
気取った表現を使う人は、料理を味わうことより言葉を探すことに注意が向いていて、言ってみれば、味そのものに向き合ってない、という箇所がおもしろいと思いました。
テレビの食レポはこういうことだと思いました。
下記の本を參考にしました
『美味しい』とは何か
食からひもとく美学入門
源河 亨