とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

対象の価値と経験の価値

こんにちは。冨樫純です。

 


哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


対象の価値と経験の価値

 


酔っていない状態で酒に口をつけ、しばらく飲んでいるとき、私たちは酒そのものがもつ味、香り、アルコールの刺激などを味わい、それらを楽しんでいる。

 


それは、流れている音楽に注意を向け、そのリズムや音色、ハーモニーの美しさを鑑賞するのと同等だろう。

 


このとき楽しまれているのは、自分が知覚している対象がもつ特徴とその価値である。

 


また、リズムなどの音楽的特徴によってそれぞれの曲に優劣がつけられるように、味や香りによって、それぞれの酒に優劣がつけられるだろう。

 


しかし、飲み続けて酔ってくると、酒の味や香りをうまく感じることができなくなってくる。当然のことだが、飲めば飲むだけ知覚や判断が鈍ってくるからだ。

 


そのため、飲み過ぎると、もはや酒自体の価値を楽しむことはできなくなる。対象の価値は楽しめなくなってしまうのだ。

 


だが、それでも飲み続ける人もそれなりにいる。

 


酒自体の価値を楽しむことはできないのに、なぜ飲み続けるのだろうか。

 


その理由は、酔っているという自分の状態を楽しんでいるからではないだろうか。

 


そして、その状態を持続させるために飲み続けているのである。

 


というのも、このあたりになると酒は割と何でもよくなってくるからだ。

 


もちろん、酒自体の価値が何もわからなくなるわけではなく、ウィスキーとビールの味や香りの違いはわかるだろうし、よっぽどまずいもの(対象としての価値がかなり低いもの)は飲みたくない。

 


だが、重要なのは酩酊状態を維持することであって、どういった味の酒が酩酊状態を維持するかは二の次になっているのである。

 


この場面では、「対象の価値が経験の価値を決定する」という通常成り立つ関係が崩れている。

 


普通なら、酒がポジティヴな価値(良い味や香り)をもっており、その価値を把握できるからこそ、それを味わっている自分の経験もポジティヴで楽しいものとなる。

 


だが、酩酊によってこの関係が崩れ、対象のポジティヴさが把握されなくなってしまう。

 


それでも、酩酊という経験自体がポジティヴな価値をもち、それが楽しまれるのである。

 


別の例として、寿司の食べ放題に行った場面を考えてみよう。お腹が空いているときには寿司がもつ価値が楽しまれている。

 


脂がのっているとか、歯ごたえがあるとか、米が口のなかで自然にほぐれるとか、それぞれの寿司がもつ味や香りが楽しまれるのだ。

 


だが、お腹がいっぱいになってくると寿司がもつ価値は楽しめない。それ以上食べても苦しさの方が勝ってしまうからだ。

 


このとき、これ以上は食べられないという自分の状態がもつネガティヴな価値によって、寿司がもつポジティヴな価値が楽しめなくなってしまう。

 


経験のネガティヴさが対象のポジティヴさを阻害してしまうのだ。それでも食べ続けるとしたら、寿司が楽しめているからではなく、「食べ放題だからたくさん食べないと損だ」と考えているからだろう。

 


以上のように「対象の価値」と「経験の価値」は異なる楽しみ(あるいは苦しみ)を与えるものとして区別できる。

 


感想

 


「対象の価値」と「経験の価値」は区別できるとぼくも思いました。

 


おもしろい見方だと思いました。

 


下記の本を參考にしました

 


『美味しい』とは何か    

 食からひもとく美学入門

 源河 亨

 中公新書

 

flier(フライヤー)