こんにちは。冨樫純です。
哲学や倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
言葉で真実を探さない
「どんどんズレていく言葉の能力」こそが文化の本質であり、文学や詩の源泉だと言うことができます。
しかし厄介な事態を起こすことも確かです。
たとえば日韓の歴史認識問題。いわゆる従軍慰安婦問題です。旧日本軍により強制連行された従軍慰安婦が存在したかどうか。
ぼく自身は存在した可能性が高いと思います。けれども、それで反対派を説得できるとは思いません。
なぜなら、ここではまさに「どんどんズレていく言葉の能力」が発揮されていからです。
まずは「強制連行」とはなにかという定義の問題があり、また、証言や記録に対しても、あれは本当だ、いや嘘だ、嘘という主張こそ嘘で裏には
陰謀があるのだ、といろいろな「解釈」が入り乱れています。
なぜこのような状況に陥っているかといえば、それは、従軍慰安婦についての論争が、最終的な証拠を証言や文書記録といった「言葉」に求めているからです。
言葉に言葉を重ねるメタゲームは、決して止まることはありません。
これは日常でもよく出会う話だと思います。たとえばセクハラやパワハラそれも記憶だけが頼りの訴えで、物理的な証拠がない、あるいは見つからないケースです。
一方が被害を主張し、他方はそれは嘘だ、記憶違いだと反論する。
ではそこで「真実」がなにかといえば、第三者にできるのは、どこかで探求を切り上げて暫定的事実を確定させ、一定の処罰を下して「終わったこと」にすることぐらいしかありません。
被害者も加害者もそれぞれ不満を抱くかもしれ
ないけれど、これは人間の言葉のどうしようもない限界です。
言葉の解釈は無限に積み上げることができるので、被害者はいくらでも話を大げさにできるし
逆に加害者はいくらでも屁理屈で逃げることができる。
言葉だけでは争いは止まらない。
だからぼくは日韓関係については、もはや正しい歴史認識を共有すべきではなく、むしろ「歴史認識を共有できないという認識を共有すべき」だと考えています。
従軍慰安婦問題に限らず、さまざまな事件について、韓国には韓国の、日本には日本の言い分があって、それぞれの国で過激な主張がある。
そこであるひとつの「正しい」歴史認識を強引に共有しようとしたら、下手をすると戦争になる。
むろん、真実はひとつです。けれども言葉ではそこには到達できない。
だとすれば、「真実を探さない」ことが合理的であることもありえます。
感想
もはや正しい歴史認識を共有すべきではなく、むしろ「歴史認識を共有できないという認識を共有すべき」だと考えています。
という箇所が印象的でした。
そうかもしれないと思いました。
下記の本を參考にしました
『弱いつながり』
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東浩紀著