とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

公衆衛生と自由

こんにちは。冨樫純です。

 


倫理学に興味があり、それに関連する本を読んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


公衆衛生の倫理学

 


実は、ミルの立場だとあまりに個人の自由を尊重しすぎており、現在の公衆衛生活動の多くを正当化することができなくなる可能性がある。

 


そのため、公共政策としての功利主義は、ミルの立場を何らかの形で「乗り越える」必要があると思われる。

 


そこで、現在の公衆衛生の倫理学とその課題について素描、筆者が考える方向性を簡単に示しておこう。

 

 

 

イギリスやアメリカでは、2000年前後から公衆衛生の倫理的側面に注目が集まっている。

 


その理由として、次の二点が挙げられる。

 


一つは、感染症に対する関心の復活だ。「感染症に関する本は閉じるときが来た」。1967年に米国公衆衛生局長官がこう述べたとされる。

 


この発言に象徴されるように、以前は死病として恐れられた結核をはじめとする感染症は、第二次世界大戦後にワクチンや治療薬の開発と普及が進んだことにより、少なくとも先進国においては最も恐るべき疾病ではなくなったはずだった。

 


しかしその後、HIV/AIDSの流行や、SARS新型インフルエンザなどの新たな感染症が出現してきた。

 


また、温暖化の影響で感染地域が拡大したマラリアや従来の治療薬が効かなくなった多剤耐性結核など、旧来の感染症の脅威も高まってきた。

 


感染症の場合、他人への感染を防ぐために強制入院や隔離措置を行なったり、接触者の追跡調査をしたり、また場合によっては特定集団へのワクチン接種を義務化したりと、集団防衛のために、さまざまな形で個人の自由を制限する必要が生じる。

 


そこで、個人の自由が最大限尊重される自由主義社会において、このような制限がどこまで正当化されるのかという問いが重要になってきたのだ。

 


第二に、医学研究の進歩による考え方の変化が指摘できる。かつては脳卒中、がん、心臓病は「三大成人病」と呼ばれていた。

 


これらの病気に「成人病」という名前が付いてい

たのは、成人して年を取ったら誰でも自然になる病気と考えられていたからだ。

 


つまり、病気の原因は加齢であり、年を取るのは仕方がないことなので、健診・検診などによって

なるべく早く病気を見つけて治療を開始しましょう、という「早期発見・早期治療」が主な対策だったのだ。

 


ところが、その後の医学研究の進展により、こうした病気は食生活や睡眠・運動習慣といった生活習慣(ライフスタイル)にも大きく関係することがわかると、成人病に代わって「生活習慣病」という呼び方が用いられるようになり、病気にならないための健康増進活動が重視されるようになった。

 


すると、人々には従来のように健診・検診を受けることだけでなく、喫煙や飲酒のような生活習慣を改善することも求められるようになる。

 


つまり、公衆衛生活動は個人のライフスタイルにこれまで以上に干渉することになったのだ。

 


中年以上の読者であれば、「健康増進法」や「メタボ健診」などにより、この経緯について肌で実感している人も多いだろう。

 


ここでもまた、どこまで病気の予防や健康増進といった目的のために個人の自由を制限することが許されるかという問いが生じることになる。

 


このように、感染症対策と健康増進活動の進展に伴い、以前にも増して公衆衛生活動が個人の自由と衝突する可能性がでてきた。

 


公衆衛生を理由に個人の自由を制限することは

どの程度までなら許容されるのか。

 


この問いについて規範的な検討が必要だということから、公衆衛生の倫理学という領域が生まれてきた。

 


この分野は、病院における医師と患者の関係を前提とする「医療倫理」とは別の領域として認知されつつある。

 


感想

 


感染症対策と健康増進活動の進展に伴い、以前にも増して公衆衛生活動が個人の自由と衝突する可能性がでてきた。

 


公衆衛生を理由に個人の自由を制限することは

どの程度までなら許容されるのか。

 


という箇所がおもしろいと思いました。

 


コロナでもまさに、この点が議論されていたと思います。

 


下記の本を參考にしました

 


功利主義入門』

 児玉聡

 ちくま新書

 

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