とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

リバタリアニズム VS保守主義

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  

 


リバタリアニズム VS保守主義

 


文化とか伝統とかを重視する人たちを「コミュニタリアン」と呼ぶようになった。

 


彼らはリバタリアンを(もちろん人権原理主義リベラリストも) 不倶戴天の敵のように罵っているが、その理由は近代主義的なのっぺりとしたイデオロギー(自由はすばらしい!)によって何千年もの歴史に裏打ちされた人類の叡智 (文化・伝統)が根こそぎ破壊されてしまうからだという。

 


だがリバタリアンは、彼ら伝統主義者の存在を否定するわけではない。伝統的な生活を送るのも、その人の自由な人生だからだ。

 


アメリカのような多民族社会において、それぞれの民族(ヨーロッパ系、アフリカ系、ヒスパニック系、中国系など)の文化や伝統を尊重しようというコミュニタリアンの一派を「文化多元主義」と呼ぶ。 リバタリアンは、コミュニティのメンバーが自由に脱退できるという条件さえ満たされれば、文化多元主義者の主張を全面的に支持するだろう。

 


それに対して、一般に「保守主義」と呼ばれるコミュニタリアンは、「その地域にもっともふさわしい文化・伝統が優先して尊重されるべきだ」との主張を展開する。

 


アメリカではそれはキリスト教ギリシア・ローマ以来の西欧文化の伝統であり、日本では縄文・

弥生以来の「やまと」の国の伝統であり、アラブ諸国ではイスラムの伝統になるだろう。

 


彼ら保守主義者の特徴は、たまたまその国(地域)に生まれたというだけで、「本人の意思にかかわらず文化や伝統を守るべきだ」と考えることだ。

 


そしてこれは、リバタリアンの理念と真っ向から対立する(もちろん、リベラリストの理念とも対立する)。

 


このあたりの事情は、アメリカを二分する中絶論争を見るとよくわかる。

 


聖書を神の言葉と見なす保守派(キリスト教原理主義者)にとって、中絶は殺人と同じ許されざる罪で

ある。

 


そのためキリスト教右翼の過激派は、中絶を行う産婦人科医院を爆破したり、中絶医師を襲撃するなどのテロをも辞さない。

 


それに対してリベラル派は女性の人権(自己決定権)をかざして対抗するが、 バタリアンもまた自己所有権を理由に中絶に賛成する。

 


すなわち女性の身体は女性のものであり、胎児が女性の身体に所属する以上、それは女性の所有物であり、自分の所有物をどのように処分しようが本人の自由なのである。

 


この自己所有権(奴隷にならない権利)は近代的自由にとって神聖不可侵のものであるから、この問題ではリバタリアンリベラリストの側につき、保守派に妥協することはない。

 


もっとも、ハイエクのような「保守的な自由主義者」は存在する。彼らは、人が合理的に行動するうえで伝統は必要不可欠であると考える。

 


人生のあらゆる選択の機会において(朝食になにを食べるか、とか) 経済的な損得(効用)をそのつど計算するのは非現実的である。

 


人々が日常生活を伝統的な方法で行うのは、たいていの場合、それが長年の経験と試行錯誤から導かれたもっとも合理的な選択だからである。

 


このように、保守派(自由は伝統に従属すべきだ)とリバタリアン(伝統は自由を制限することはできない)の対立は原理的なものなので、論争によって決着がつくわけではない。

 


だが、近代における「自由」の価値は圧倒的で、「伝統」がそれに取って代われるわけではない (中世の伝統社会に戻りたいとはだれも思わない)ので、保守派は常に終わりなき撤退戦を強いられている。

 

 

 

日本でもアメリカでも保守派の声が大きくなる

のは、そうしなければ自分たちの主張が人々の耳に届かなくなるからだ。

 


放っておけば、人は「自由」の価値に引き寄せられていく。過激なイスラム原理主義者ですら、「自由のために」 たたかっているのである。

 


感想

 


近代における「自由」の価値は圧倒的で、「伝統」がそれに取って代われるわけではない という箇所がおもしろいと思いました。

 


たしかに、現代でも自由の価値は圧倒的だと思います。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

flier(フライヤー)