こんにちは。冨樫純です。
独学で、政治学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
啓蒙とは何か
啓蒙についてはいろいろな理解がありうるが最もよく知られているのは、イマヌエル・カントの 『啓蒙とは何か』 (1784年)における定義であろう。
彼によれば、啓蒙とは、人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることであり、自分自身の知性を使用する勇気をもつことである。
「あえて賢くあれ!」 これこそが啓蒙の標語であった。
それでは、「自分自身の知性を使用する勇気」とは何であろうか。
カントの見るところ、多くの人間は自分の頭で考えようとする前に、何らかの権威に頼ろうとする。
「先生がいったから」 「本に書いてあったから」 「専門家のアドバイスだから」
人に聞くことそれ自体が悪いわけではない。 問題は、最終的に自分で判断することを恐れ、だれか「権威」ある存在に、自分の代わりに決めてもらおうとすることである。
人間はみな、独り立ちするのに十分なだけの知性を与えられている。
それなのにその人が「賢く」ないとしたら、原因は知性の欠如ではなく、勇気の欠如にある。
人はなぜ他者の指導に従うのかといえば、その方が楽であり、安全だからである。いわば怠惰と臆病こそが自己の知性の使用を妨げているのであり、啓蒙に必要なのは、知性の後見人からの独立であるとカントは主張した。
ここまでの説明からも明らかなように、啓蒙とは、だれか優れた者がより劣るだれかを教え導くことではない。むしろその逆である。
人が自分自身の知性を使用するのが啓蒙であり、だれか他者の指導に従うのは、啓蒙の否定にほかならない。
しばしば使われる 「啓蒙専制君主」という言葉にしても、その君主自身が啓蒙されていることが重要であって、君主が無知蒙昧な人民を教え導くという意味ではない。
さらに、カントが理性の公的使用と私的使用を区別していることも重要である。それでは、理性を私的に使用するとはどういうことか。
意外なことに、ある個人が職場の役職に基づいて発言するとき、それは理性の私的使用であって、公的使用ではないとカントはいう。
なぜなら、理性を公的に使用するとは、一人の個人が地位や立場を離れ、世界市民社会の一員として考え、発言することを意味するからである。
それと比べれば、地位に基づく発言は、あくまでその組織の論理の内にある。
したがってある軍人は、上官の命令がおかしいと思っても、組織内部ではそれに従う必要がある。
とはいえ、ひとたび勤務時間を終えれば、一人の市民として組織の瑕疵や不正を告発できるし、そうしなければならない。
そのためにも、人々が自らの理性を公的に使用し、発言するための公的空間が必要である。
感想
カントの見るところ、多くの人間は自分の頭で考えようとする前に、何らかの権威に頼ろうとするという箇所がおもしろいと思いました。
テレビのコメンテーターを見ているとまさにそう思います。
下記の本を参考にしました
『西洋政治思想史』
宇野 重規著
有斐閣アルマ