こんにちは。冨樫純です。
「君主のニつの顔」についてのコラムを紹介します。
権力者やリーダーは表と裏の顔を持つといわれますが、それを連想しました。
君主にとって、信義を守り、公明正大に生きるのがどれほど称賛されるものかは、だれもが知っている。
だが、現代の経験の教えるところでは、信義などほとんど気にかけず、画策めぐらして、人々の頭を混乱させた君主のほうが、むしろ大きな事業(戦争)をやりとげている。
しかも、結局は、信義に基づく君主を、彼らのほうが圧倒していることが分かる。
ところで、戦いに勝つには、ニ種の方策があることを心得なくてはならない。
その一つは、法律により、他は力による。
前者は、人間本来のものであり、後者は獣のものである。
だが、多くの場合、前者だけでは不十分であって、後者の助けを借りなくてはならない。
したがって、君主は、野獣と人間をたくみに使いわけることが肝心である。
そこで君主は、野獣の気性を、適切に学ぶ必要があるのだが、 このばあい、野獣のなかでも、狐とライオンに学ぶようにしなければならない。
理由は、ライオンは策略の異から身を守れないし、狐は狼から身を守れないからである。異を見
抜くという意味では、孤でなくてはならないし、狼どものどぎもを抜くという面では、ライオンでなければならない。
といっても、ただライオンにあぐらをかくような連中は、この道理がよくわかっていない。
要するに、君主は前述のよい気質を、なにからなにまで現実にそなえている必要はない。
しかし、そなえているように見せることが大切である。いや大胆にこう言ってしまおう。 こうしたりっぱな気質をそなえていて、後生大事に守っていくというのは有害だ。そなえているように思わせること、それが有益なのだと。
たとえば慈悲ぶかいとか、信義に厚いとか、人情味があるとか、裏表がないとか、敬虔だとか、そう思わせなければならない。
また現実にそうする必要はあるとしても、もしもこうした態度が要らなくなったときには、まったく逆の気質に変わりうる。
ないしは変わる術を心得ている、その心構えがなくてはいけない。
君主は、ことに新君主のばあいは、世間がよい人だと思うような事がらだけをつねに大事に守っているわけにはいかない。
国を維持するためには、信義に反したり、慈悲にそむいたり、人間味を失ったり、宗教にそむく行為をもたびたびやらねばならないことを、あなたには知っておいてほしい。
したがって、運命の国向きと、事態の変化の命じるがままに、変幻自在の心がまえをもつ必要がある。
そして、前述のとおり、なるべくならばよいことから離れずに、必要にせまられれば、悪にふみこんでいくことも心得ておかなければいけない。
総じて人間は、手にとって触れるよりも、目で見たことだけで判断してしまう。
なぜなら、見るのはだれにでもできるが、じかに触れるのは、少数の人にしか許されないからだ。
そこで、人はみな外見だけであなたを知り、ごくわずかな人しかじっさいにあなたと接触できない。
しかも、この少数の者は、国の尊厳に守られている大多数の人々の意見に、あえて異を唱えようとはしない。
そのうえ、すべての人々の行動について、まして君主の行動について、召喚できる裁判所はないわけで、人はただ結果だけで見てしまうことになる。
だから、君主は戦いに勝ち、そしてひたすら国を維持してほしい。
そうすれば、彼のとった手段は、つねにりっばと評価され、だれからもほめそやされる。
大衆はつねに外見だけを見て、また出来事の結果によって、判断してしまうものだ。
しかも、世の中にいるのは大衆ばかりだ。
大多数の人が拠りどころをもってしまえば、少数の者がそこに割りこむ余地はない。N. マキアヴェリ「君主論」(Machiavelli1532=1975: 102-06)下記の本を参考にしました
『社会学』
新版 (New Liberal Arts Selection)
長谷川 公一 他2名