こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
何にでもなれる自分
子どもが成長し、何かを学び、何かを選び取っていく。
その積み重ねが、人が何者かになるプロセスであり、そこに大きく、深く関わってきたのが、広い意味での教育である。
生まれたばかりの赤ん坊を目の前にしたとき、その子が何になるか、何になれるのか。
私たちは、できるだけ多くの子どもたちにできるだけ大きなチャンスを与えたいという願いを共有している。
どんな家庭や地域、あるいは人種や性別に生まれたかによって、将来のチャンスの芽がつぶされてしまう。
そういうことは極力避けたい。 誰にでも等しいチャンスを与えたいと願う気持ちは、近代と呼ばれる時代に生まれ、広くいきわたった理想の1つ 「機会の平等」という考え方である。
そして、近代という時代の教育 (主には学校教育)は、実際にどれだけ有効であったかどうかは別として、そうした願いを実現する有力な社会制度の1つとみなされてきた 。
それはまた、生まれたばかりの子どもに、何にでもなれる選択の自由、能力発揮の自由を保障するという意味での「自由」の尊重という考えにも通じていた。
かつて封建的な身分制度が支配した時代では、どのような身分の家に生まれるかによって、 将来が、決まっていた。
そのような時代には、「5年後、10年後の将来像」を誰もが自由に考えられる、ということ自体起こりえなかった。
生まれによって将来の職業や身分が決まってしまう時代とは異なり、個人の自由な選択を重視し、それに見合った能力の発揮が期待される考え方が広く支持されているからこそ、自分で選ぶ5年
後、10年後が想像の対象となるのである。
そして、ここには教育が深く関わっている。
感想
自由だからといって何にでもなれるのだろうか、ある程度の制約はあると思います。
下記の本を参考にしました
『Do! ソシオロジー』改訂版
友枝 敏雄 他1名
有斐閣アルマ