とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

市場が求める製品とは

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学法哲学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル 市場が求める製品

 


品質を向上させるのにコストがかかるケースを検討してみよう。

 


ここでもわれわれは同じ結論に到達する。

 


自由な市場では、「計画的に粗悪品をつくる」ことは日々行われているが、これは無駄でもなければ無意味でもない。

 


それは、消費者に提供される品質の選択の一部な

のである。

 


タイヤの価格と寿命の関係を考えてみてほしい。

 


タイヤの購入を考えている消費者は、高品質で高価なタイヤか、低品質で安価なタイヤかの選択肢を与えられる。

 


たとえば1000円のタイヤは15000円のタイヤほど長持ちしない。

 


安物のタイヤはすぐに擦り切れるようにつくられているので、これも「意図的な粗悪品」の例であるが、いったいどこに浪費があるだろうか。

 


低価格タイヤをつくるメーカーは消費市場に巧みに適応している。彼らは、無知な消費者をだまして劣悪な製品を買わせているのではない。

 


顧客の欲しがるものをつくっているだけである。

 


もしもこのメーカーが消費者団体からの圧力で製造を中止したら、市場における低品質タイヤの価格は自然に上昇するだろう。

 


供給が止まっても需要は存在しつづける。そしてこの価格の上昇は、タイヤメーカーにとって、低品質タイヤの分野に戻ること(あるいは新規参入すること)への抗いがたい誘因となる。

 


このようにして、市場は消費者のニーズを満たしていく。

 


また、紙皿は、品質によって価格のちがいがある場合に、「意図的な粗悪品」が無駄でないことを示すよい例である。

 


いったいだれが紙皿メーカーを、「粗悪品を消費者に売りつけている」と非難するだろう。

 


タイヤと同様に、皿にも質と価格のさまざまな組み合わせがある。消費者は用途と財布の中身に応じて、紙皿やプラスチックの皿、焼き物の皿、さらには最高級のメイド・イン・チャイナの皿を選ぶことができる。

 


紙ナプキンの急速な劣化に無頓着な人が、車がすぐに故障するといって「粗悪品」に文句を言うのもおかしな話だ。

 


いずれの場合も、より高い価格でより高品質の製品が手に入ることに変わりはない。

 


消費者に選択がまかされているにもかかわらず低品質の車が故障すると苦情を言うことは、コップが長持ちしないといってクレームをつけるのと同じくらい無意味である。

 


安価な製品は、高価な製品のように長持ちさせなくてもいいから、安いコストで生産できるのである。

 


消費者の嗜好を反映した「意図的な粗悪品」は、明らかに無駄ではない。

 


ここで、次のように反論する人がいるかもしれない。「紙皿が消費者をだましているわけではないとしても、そもそも使い捨ての紙皿そのものが木材資源の浪費ではないのか」と。

 


こうしてエコロジストたちは、「低品質の製品は、高品質の製品よりも多くの資源を浪費して

いる」と主張する。たしかに、製品の質が低いほど頻繁に買い替えや修繕が必要になるのは間違

いない。

 


しかしその一方で、高品質の製品は最初の段階でより多くの資源を消費している。初期に多くの自然資源を浪費する高品質の製品と、継続的に資源を浪費(修理や買い替え)する低品質の製品を、単純に比較することはできない。

 


自由な市場では、消費者が最適な価格と品質のバランスを選択し、すべての製品は、消費者から見てもっとも無駄のないようにつくられる。

 


「流行はすぐに変わるから、5年も長持ちする洋服なんて無駄だ」とみんなが思えば、メーカー

は1シーズンか2シーズンで着られなくなる安い服のほうが利益になると判断する。

 


もしも市場が求めるなら、紙で使い捨ての洋服をつくることだってするだろう。

 


同様に、人々が長持ちする車を欲したら、メーカーはそのような選択肢を用意する。

 


顧客が最新の設備や機能を備えた快適な車を希望すれば、高い価格でフル装備の高級車を売り、シンプルな車を好む顧客には、ごてごてした装飾を廃してより安い価格の実用車を提供するだろう。

 


感想

 


「意図的な粗悪品」はそれほど非難されるようなことではないと思いました。

 


下記の本を参考にしました 

 


『不道徳教育』

 ブロック.W 他1名

 講談社

 

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