こんにちは。冨樫純です。
「宗教改革とメディア」ついてのコラムを紹介します。
当時の活版印刷術の存在は、今でいうTwitterと同じようなものだと感じました。
マルティン·ルターは1517年10月31日(ハロウィンの日), 「95力条の論題」を発表し、ローマ教皇がドイツで販売していた噴宥状(免罪符)の悪弊を批判した。
ただ「95力条の論題」 はドイツ語ではなく、専門家しか理解できないラテン語で記述されていたし、 実際は公開質問状を教会の扉に掲示したのではなく、ルターの上司にあたる司教に書状を添えて送っただけであった。
ルターはあくまでも神学上の問題と考え、社会的な改革は目指していなかった。
当時の学会の慣例に従い、学者の討議を要請する意図であったのである。
16世紀段階でのドイツの識字率は5%程度であったと推定されていることから、「95力条の論題」がたとえドイツ語で発表されていたとしても、読めたのはわずかな人数でしかなかった。
それにもかかわらず、ルターの支持者は急速にドイツ全土に広がった。どうしてだろうか。
政治的宗教的背景など、いくつか考えられるが、大きな要因として活版印刷術の普及に注目する必要がある。
当時のドイツ国内では皇帝派と反皇帝派の諸侯とが争い、教皇庁や領主の搾取に反発する市民や農民など広汎な社会層が存在し、ルターを支持した。
ルターの教説は支持者の積極的な活動によってドイツ各地の教会内での説教と宣伝活動がくりかえされた。
さらに粗悪な紙と誤植がめだち、実用一点張りの装丁、少ないページ数であったが、グーテンベルクが発明したとされるイラスト入りの活版坂印刷物が大量に印刷、配布された。
カトリックへの論争や攻撃を目的とするタイトルなど、教皇は時には悪魔として、あるいは陰険な動物に描くことで、教皇は信仰深い民衆に「悪者」として認識されることになった。
この印刷物の普及が、識字率の低い当時のドイツにあって広汎な社会層の支持につながった。
これに対して教皇側は活版印刷でのヨハン·エックとの討論、ウォルムス国会への召喚と皇帝による帝国の法律外におく処置(殺害を容認)など、既存権力に依拠する圧力で対応した。
そのために、権力に敢然とたちむかった「力強いルター」のイメージが、ドイツ全土に定着した。
下記の本を参考にしました。
『新 もういちど読む 山川世界史 』
「世界の歴史」編集委員会 (編集)
山川出版社