こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル 演技の遊戯性
ゴッフマンはそこまで書かなかったけれども、演技という行為には、もう一つ忘れてはならない側面がある。
それは、演技が「ふりをする」ということから引き起こす、「現実を相対化する」という力についてである。
たとえば、私たちが何かの演技をおこなおうとするとき、ときとしてそれ自体が自分にとって楽しいできごとになるときがある。
その日のできごとに備えて身だしなみを整えているとき、鏡に映った自分を見て、何かワクワクしてしまうときがそれだ。
つまり、ここにはおそらく、「いつもと違うバージョンの私」へという、自己変身の欲望がひそんでいる。
いわば仮面をつけることで、もう一人の自分へと変身する楽しさ。
ゴッフマンが描くような、計算と戦略をとおして印象を操作しようと企てる、そのようなシニカルな自己はここに存在しない。
このときの「私」は、パフォーマンスや企てからは身をひき、新しい身体をまとったもう一人の自己に遊ぶ態度のうちにある。
ロジェ・カイヨワはこのようなふるまいをミミクリー(変身)と名づけ、それが、日常生活である〈俗〉の世界や、宗教や祝祭に代表される〈聖〉の世界とも相対的に異なった、〈遊〉という独自の意味の領域にあると論じた。
この「遊ぶ」という態度には、独特の距離感覚を引き起こすことになる意識の二重性がある。
たとえば「ママゴト遊び」を考えてみよう。
「ママゴト遊び」における「お母さん」の役柄に対して、「私はお母さん」と思いこむことが、「ママゴト遊び」で遊ぶときにはまず必要なことである。
ところが、同時に「私は本当のお母さんではない」ということも理解していなければ、もちろん「ママゴト遊び」は遊びではなくなってしまう。
つまり、「私はお母さんである私はお母さんではない」という矛盾した二つの意識が同時に存在しなければ「ママゴト遊び」は成り立たない。
これが「遊ぶ」という態度にある、独特の意識の二重性のことである。
となれば、同じように社会生活において性が演じられているものであるとするならば、ジェンダ
化された演技を「遊んでいるのだ」という態度が表に浮かびあがってくることで、「私は「女/
男」である(ジェンダー化された役柄を演じざるをえない)」「私は「女/男」ではない(あえてジェンダー化された役柄を演じているのだ)」という意識の二重性を引き起こすことができるのではないか。
そして、こうした意識の二重性が、「日常生活のもつ現実性」を飛び越えることなく、規範的なものとして感じられている既存のジェンダー枠組みを、多様化させるきっかけになるのではないかと思うのである。
感想
「ママゴト遊び」の例がわかりやすいと思いました。
演じることと遊びが結びついているのです。
下記の本を参考にしました
伊藤公雄 牟田和恵編著