こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
恋愛の曖昧さとジェンダーのゆらぎ
「結婚」を意識する恋愛ばかりではない。
というより、男女交際や婚前の性交に関する規範が緩んだ現在、恋愛は、より身近で何度も繰り返すものになった。
しかしそのことは逆に、恋愛の曖昧さをもたらしているともいえる。相手のことが「好き」で、一緒にいて楽しいとしても、それがいったい「恋愛」なのか?
セックスの関係があれば、恋愛なのか?
「愛している」と告白しあっていれば、恋愛なのか?
いつも一緒にいたいと思わないなら、本当の恋愛とはいえないのか?
山田昌弘は、恋愛をめぐるこの曖昧さを、「恋愛と呼ばれる感情は主観的に構成」されるが、現在では何が恋愛かという「主観的構成」の規則に対する合意が失われつつあるからだと説明してい
る。
恋愛と結婚の結びつきが薄れ、性的関係に関する規範が緩やかになったため、何が恋愛なのか、がわかりにくくなっているのだ。
それにもかかわらず、いや、だからこそ、人は「本当の恋愛」を求めて、さまようことになる。
恋愛のむずかしさは、現代のジェンダーをめぐる期待の変化にも関係している。
望ましい「男らしさ」「女らしさ」に変化があらわれ、サークルやゼミの仲間同士で接するときには、「頼りがいのある女の子」「気弱で可愛い男の子」などはもうめずらしくもない。
料理一つもできず「黙って俺についてこい」なんてタイプの男の子は古臭いマッチョタイプとして嫌われかねないし、「ケーキづくりが大好きなの」といかにも「女らしさ」を見せつける女の子は仲間のなかで浮いてしまうだろう。
ところが、いったん「恋愛」となると、自分が異性として魅力的であるのかどうかと問わずにはいられなくなる。
友達の延長としか思えないつきあいをしていれば、「これって本当の恋愛?」と何となく疑わしくもなってくるだろう。
「恋人だったら手料理をつくってあげなくては」「恋人にはバイトで稼いでプレゼントしたり記念日のイベントをしなくてはいけないのでは」と、「愛情」の証は、古臭いジェンダー・ステレオタイプと結びつきがちだ。
それくらい、私たちにとって恋愛の型は今なお古典的なのだ。
これは、「自由」と結びつけてイメージされがちな恋愛の一つのパドックスだろう。
感想
いったん「恋愛」となると、自分が異性として魅力的であるのかどうかと問わずにはいられなくなるという箇所がおもしろいと思いました。
恋愛においては、望ましい「男らしさ」「女らしさ」を求めるのです。
下記の本を参考にしました
伊藤公雄 牟田和恵編著