こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
ノーペイン・ノーゲイン
男子の成人儀礼において苦痛を平然と受け入れる態度を形成するのは主要な課題であったが、スポーツにおいても一流をめざすにはケガを恐れてはいけないといわれている。
少し前のアメリカでの調査によると、大学のアスリートは一年間で約半数が負傷し、しかもその大半がそれを押してプレイを続けなければならないプレッシャーを感じていたという。
確かにトップ・アスリートであり続けようとすれば、激しい訓練からケガの日常化は避けられないだろう。
しかし問題は、なぜそれが選手本人以外からも期待され、暗黙のうちに強制されるのかという点にある。
とくにプロをめざしていない学生の場合、金銭的利害では何も説明できない。
これについて通過儀礼と青少年スポーツの比較から考えると、競技スポーツにともなう苦痛の克服には「男」として認められる名誉が与えられるために本人も希望する部分が大きいのではなかろうか。
最近のマスコミでも、肉体的な苦痛の克服と人間的成長を同一視する物語は肯定的に報道されている。
甲子園で腕が曲がるまで連投を続ける投手の物語や、練習中のケガを抱えながら金メダルを獲得する柔道選手の物語を見聞きするなかで、今も少年たちはこうした選手をヒーロー視する文化を身につけていく。
レスリングやラグビーの選手の圧力でつぶれた「カリフラワー耳」は、この文化のなかでこそ「男の勲章」と呼ばれるのだ。
競技スポーツにおいて、「ノーペイン・ノーゲイン」という格言はその価値があまりにも当然視
されているので、右のような解釈は認められにくいかもしれない。
その格言の負の側面を知るには、苦痛が他のプレイヤーに与えられる場面を考える必要があるだろう。
まず、ボクシングやレスリングのように、暴力がそのまま昇華されたようなスポーツは、とくに男性的な価値の象徴として理解され、長らく女性の参加が禁じられてきたという事実がある。
その反面、女性に自衛の手段を教えるインストラクターによれば、女性たちが学ぶべき第一のレッスンは拳の握り方であるという。
他のスポーツでも、場面が違えば傷害事件とみなされそうなできごともエキサイティングなシーンとして見過ごされ、賞賛さえされる傾向にある。
北米のあるアイスホッケー選手は、テレビで全国中継された試合で乱闘を避けたために、解説者たちから「腰抜け」とののしられた。
そのため、後に彼は乱闘を試合の自然な一部だと主張するようになったそうだ。
メジャーリーグでも、乱闘が生じたときに加わらない選手がいるとチームの士気を落としたことを理由に「罰金」が科されるという。
ならば女性のプロ選手が誕生したら、同じあつかいを受けるだろうか。おそらくそうはならないだろう。実際に北米では、1990年代の終わり頃に独立プロリーグで女性野球選手が存在したが、彼女は引退後に「燃える世界にハマってなかった」と評されている。
要するに、ここでいわれる〈チーム〉とは、苦痛や暴力を友とすることが参加資格となる、男性だけの〈チーム〉なのだ。
古典的なスポーツ文化は、闘争心や自律心を賞賛するなかで、暴力を抑制しながら行使する能力や自分に行使された暴力に耐える能力を基準にして社会のメンバーを選別してきた。
しかもその選別競争への女性の参加は保護の名目で長らく門前払いされてきたし、それに負けずに苦痛や暴力を克服した女性スポーツ選手の価値は、いまだに「女らしくない」という理由で割引きされ続けている。
実際、女性のボディビル大会では、筋肉の発達で勝っているにもかかわらずレスビアンの選手はしばしば優勝を逃しているし、口紅をつけなかったりしてその疑いをかけられただけでも不利になるといわれている。
感想
怪我が男勲章のように言われることがありますが
、プロスポーツ選手にとっては選手生命に関わる重大なことです。
なので、勲章扱いするのは間違いだと思いました。
下記の本を参考にしました
伊藤公雄 牟田和恵編著