こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル
私たちの社会には、「女は家庭で男は仕事」「3歳までは母親が育てるべき」「胸の大きい女性は魅力的だ」「ハゲの男はカッコわるい」といったジェンダーにかかわるさまざまな考え方がある。
これらの「女とはこのようなものである」「男はこのようにあるべきだ」という考え方をジェンダーイデオロギーと呼ぶ。
ジェンダー・イデオロギーとは、特定の時代、特定の社会の権力関係からつくりだされた一つの考え方にすぎないが、それにもかかわらず、「常識・知識」となって私たちの行動を縛っているジェンダーに関するイメージ・カテゴリー・規範を指す。
たとえば、 「大きなおっぱいは女性のセックスアピールだ」というジェンダー・イデオロギーが現代の日本の常識であることは、着物で生活していた時代の女性は、胸が大きいとさらしを巻いて小さくみせていたことを考えれば明らかである。
私自身、南太平洋から来ていた友人から「日本人はトップレスといって騒ぐけれど、僕の故郷ではお母さんもお姉さんもトップレスだ」といわれて「おっぱいがセックスアピールになる」こと自体がつくられたものであることに気づいた経験がある。
にもかかわらず、私たちは自分からすすんでジェンダー・イデオロギーに従うような選択をしていることが多い。
胸を「よせてあげる」 ブラジャーが売れ、豊胸手術が儲かり、大きな胸で稼げる人がいて、大きな胸の女性の写真が載った雑誌が売れる。
なぜだろう。それは、私たちがイデオロギーによって支配されているからである。
人間は暴力や軍事力によって他の人間を支配してきた。
しかし、民主主義が尊重されている近代社会ではあからさまな支配は批判される。
そこで近代社会に見られるのが、特定の考え方を広く普及させ常識、知識にすることによって、支配されている人たちが自分からすすんで支配に従うようにするイデオロギーによる支配である。
ジェンダーにかかわる法律や条約が新たに制定されたり改正されたりしても私たちの意識が変わりにくいのは、私たちがジェンダー・イデオロギーに縛られているからなのである。
では、ジェンダー・イデオロギーはどのようにつくられ、どのように「常識」となったのだろう
か。
ここに、ことばが注目される理由がある。
なぜならば、ジェンダー・イデオロギーの常識化は、ことばによって繰り返し広く語られることで達成されるからである。
たとえば、私たちはどこで、どのように「おっぱいの大きい女はよい」というジェンダー・イデオロギーを学んだのか考えてみよう。
典型的には、電車のつり広告やスポーツ新聞で毎日のように目にしているおっぱいの写真や「巨乳」「爆乳」 「Fカップ」などのことばである。
これらのことばが「大きなおっぱいは女性のセックスアピールだ」というジェンダー・イデオロギーをつくりだしている。
ことばは、なぜイデオロギーをつくりだすことができるのだろう。
私たちは通常〈犬〉がいるから、それを指し示すために「イヌ」という語があると考える。
しかし、ことばは、連続した外界を区別し、その区別に意味を与えるだけでなく、外界に存在しないものまでつくりだすことができる。
「アニ・オトウト」という語を考えてみると、この区別があらかじめ存在したものでないことは、
英語には brother という語しかないことからもわかる。
「アニ・オトウト」という語は、子どもを出生順によって区別するだけでなく、両者に異なる意味を与えている。
「お兄さんだから我慢しろ」という表現は、兄と弟に異なる意味が与えられていることを示している。
同じように、「巨乳」ということばは、連続した身体から「おっぱい」を区別し、それに〈セックスアピール〉という意味を与えている。
それだけではない。
ことばには、「カッパ」や「ユニコーン」のように存在しないものをつくりだす力がある。
だからこそ、女性たちは「胸の谷間」を目標に、「谷間づくり」にいそしむことができるのである。
ことばと外界のずれは、文化を創造する源である。しかし、この「ずれ」に偏った視点が入り込
むと、偏ったイデオロギーが常識となってしまう。
「巨乳」をめぐるさまざまなことばは、「おっぱ
い」という一つの身体部分に〈セックスアピール〉という意味づけをし、「理想のおっぱい」を喧伝することによって、莫大な市場をつくりだしているのである。
感想
ことばで、ジェンダーイデオロギーも知らず知らずのうちに刷り込まれていたのかと思いました。
下記の本を参考にしました
伊藤公雄 牟田和恵編著
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