とがブログ

本の紹介と、ぼくの興味があるテーマについて書きます。

スポーツの功罪

こんにちは。冨樫純です。

 


独学で、社会学を学んでいます。

 


そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。

 


タイトル  文化を創造する遊び

 


人間にとって遊びとは何か。

 


ヨハン・ホイジンガは、それは人間の文化の原動力だといった。

 


人間と他の生物の違いは、生まれもった能力の高さではない。

 


たとえば何の目印もない大海原を越えて、季節によって生存に適切な場所に移動する渡り鳥を考えてもわかる通り、与えられた本能によって人間以上の能力を示す生物はいくらでもいる。

 


むしろ人間の独自性は実際上の必要がないことに夢中になれるところにある。

 


ただ「気持ちよさそう」と思っただけで鳥のまねをして空を飛ぼうとしたり、知的好奇心だけから命の危険を冒して海底探検したり、要するに「無駄なこと」を用意周到に計画し実行する態度は他の動物には見られない。

 


そうやって「遊んで」いるうちに人間は、その祖先が想像もしなかったほど高度な社会と文化を生み出した。

 


ホイジンガに影響を受けたロジェ・カイヨワは、遊びが文化に先行するというホイジンガの理解を修正して、両者は互いに支えあうものと考えた。

 


それゆえ彼は、ある時代や社会に流行する遊び

の傾向を調べることで、その特徴を判断できると主張した。

 


この意見に従って現代社会を象徴する遊びを考えると、その有力候補にスポーツをあげることができるだろう。

 


健康志向の高まりや公私のスポーツ施設の普及によって、老若男女を問わず、 スポーツ人口は今も増加し続けている。

 


尊敬する人物を尋ねたとき、スポーツ選手をあげる人は少なくない。 スポーツ観戦まで含めれば、それは確かに現代人にとって一番身近な遊びである。

 


しかしスポーツを〈遊び〉といってしまうと、そこには少なからず違和感がある。

 


ホイジンガがいうように、それは遊びとしては少し真面目すぎるのだ。

 


甲子園をめざした野球少年が肘を壊すまでプレイしたり、ジョギング愛好家が膝を壊すまで走り続けたり、そういう悲壮な事例は決してめずらしくない。

 


他の遊びと比べるとスポーツはあまりにも競争と記録を重んじていて、それが一般の遊びがもつ解放感をそこなってしまっている。

 


だが競争とその成果にこだわることで、それは個

人の自己実現を可能にもしてくれる。

 


競技のなかで、自分の努力が実を結んでいくのを実感したり、つらい練習をともに乗り越えることで仲間を得たり、ライバルとの死闘の果てに互いの価値を認めあえたりすることは確かに個人の自信や精神の安定につながるだろう。

 


両義的な評価があるとしても、競争や記録を重視するスポーツでは、いずれにせよ競技の枠組みを成立させる規則が重んじられなければならない。

 


競技スポーツは、時と場所を選ばず、いつでもルール通りにおこなわれなければその競争結果や記録自体も無意味になってしまう。

 


ヘルマン・レルスはそうして規則に従順に育てられたスポーツマンたちが場合によっては体制に順応的で、批判精神を欠いてしまう危険があることを指摘している。

 


実際、学生運動が華やかだった頃には、体育会に所属する学生が大学当局側について他の学生と対立するようなことさえあった。

 


もちろん当時の学生運動が「正しい」ものだったのかどうかには疑問もあるし、一部ネガティブな影響を残したことも確かだが、それがさまざまな音楽やファッションを育み、多様なライフスタイルを生んだこともまた事実である。

 


スポーツが勝利至上主義に自閉してしまうと、競争主義的な側面の強い資本主義社会への適応度は上がるが、もともとの〈遊び〉がもっているような既成概念を打ち破るような創造性には足かせがはめられてしまうようだ。

 


感想

 


規則に従順に育てられたスポーツマンたちが場合によっては体制に順応的で、批判精神を欠いてしまう危険があるという指摘がおもしろいと思いました。

 


スポーツマンのまじめさも影響している感じもします。

 


下記の本を参考にしました 

 


ジェンダーで学ぶ社会学』  

 伊藤公雄 牟田和恵編著

 世界思想社

 

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