こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル 「他者を知る」手だては何か
私たちが「他者を知る」のは、まずどんなかたちでだろうか。
それが「類型化」である。
類型化には、まず性別、年齢、出身地、職業などによるものが考えられる。
そうした類型化を促進する出会いのパターンがいわゆる自己紹介だ。
そして「長く持続する歓談のさいの……ありきたりの相互の紹介は、それはいかに空虚な形式と思われようとも、あの相互の認知のふさわしい象徴」なのだ。
その過程で私たちは相手を類型化し、関係が形成できるとりあえずの像を獲得する。
そして徐々に私たちは自分が他者に与えた類型化された像に修正を加えることによって、相手との適度な距離を設定していく。
しかし次のことがやはり強調されなければならない。
「人びとはけっして他者を絶対的に知る―このことが、それぞれの個々の思考とそれぞれの気分についての知識を意味するとすれば―ことができず、他者が彼の断片においてのみわれわれに近づくことができるため、人びとはそれでも彼の断片から個人的な統一体を形成するのであるから、この統一体は、彼にたいするわれわれの立場が見ることを許した彼の部分に依存している。」
私たちは他者を「絶対的に」は知ることはできない。
「絶対的に」というのは、彼(女)がそれぞれの瞬間にどんな振る舞いをしたか、何を考えているか、どんな気分でいるかの総和的な全体のことだ。
個々の断片のすべてを残らず集めるというかたちで「彼(女)のすべて」を知ることは絶対にできない。
だからといって私たちは断片的にしか彼(女)を知ったことにしかならないのだろうか。
そんなことはない、とジンメルは考える。
私たちは、他者に対する断片的な知識から「彼
(女)に対する個人的な統一体」を作り上げている。つまり「彼(女)ってこんな人なんだ」という全体的イメージを構成しているのだ。
だから私たちの他者の認知はその構造の本質からして、彼(女)そのもの、絶対的客観性という意味でのほんとうの彼(女)に到達することはない。
他者という客体そのものを越え出てある全体像を作り上げる――このことが他者認知の第一の前提なのだ。
逆にみれば、私が認知の対象にされた場合でも事態は同じだ。
私は「私そのもの」として他者から認知されるということは決して不可能で、常に認知主体である相手が作り上げる私に対する全体像によっていわば勝手に理解されてしまうのだ。
ときにはそれはかなりの誤解を含んでいたり、ちょっとした勘違いだったりすることもある。
しかし、ジンル的観点からするとそうしたズレは基本的にはしかたがないということになる。
相手が自分に対してどういう全体的イメージをもっているかをあれこれ心配したり、どんな人にももって欲しい自分のイメージに固執してそれに合わせて自分の行動の可能性を狭めたりすることは、自分の「生」の可能性を殺すことになる―ジンメルならこのようにいうだろう。
しかし、どうしてもほうっておけない場合もあることはまたたしかだ。
それは自分に対する他者のイメージが自分が抱く自己イメージと著しく違っている結果、他者との関係において現実的に深刻な軋轢を生むような実際上の問題が発生するような場合である。
とはいえ、厳密に考えるとどういう状況がほんとうに実害なのかそうでないかという問題は、当人のパーソナリティにかなり依存する場合も多い。
つまり自己像と他者の像のズレがどうしようもなく気になる、そのことで精神的に傷つくということの一般的な幅というのは確定することは困難なのだ。
しかし、そうであるならなおさら、自己像と他者からみた像は「原理的に」ズレが生じるという
ことの指摘は重要である。
つまりこうしたズレがあること自体で精神的に傷つくというのは、この二つの像の一致が可能だ
し、そうなるべきだという無意識の欲求があるからだ。
しかしそれは他者に対する過重負担を強いる実現不可能な欲求なのだ―こうしたことが納得できるかたちで理解されれば、自分に対する自己像と他者が抱く当人に対する像にズレがあったとしても、よほどのことがないかぎり多少ずれとしてやり過ごすことができるだろう。
感想
私たちは、他者に対する断片的な知識から「彼
(女)に対する個人的な統一体」を作り上げている。つまり「彼(女)ってこんな人なんだ」とい
う全体的イメージを構成しているのだ、という箇所が特におもしろいと思いました。
断片的な事実や知識を自分の都合の良い感じで組み合わせて、イメージすることはあり得ると思いました。
下記の本を参考にしました
『ジンメル・つながりの哲学 』
菅野 仁