こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的におもしろいと感じたところを引用し、感想を書きたいと思います。
タイトル 「知人関係」という距離のとり方
「目的結合」に代表されるように相手の、人格的側面に全く顧慮しない純粋に「事実的な」関係
(ここで「事実的」というのは、純粋に相手が「事実」として行なう行為が適切か不適切かにしか関心が向かわないという意味だ)と、後に問題になる「友人関係や夫婦関係」のような「親密な関係」の間には、「知人関係」と呼ばれる中間的な性質の関係がある。
知人関係とは、たとえば何かのパーティの場で知り合ったとか会社の取り引きの関係上名刺交換をして顔見知りになっているとかそういう程度の関係だと考えればよいだろう。
いわゆる「顔つなぎ」とか、いろいろな会合やパーティにまめに出席して「顔を売る」なんてことが、社会人になるとけっこう必要になったりするというレベルでの関係だ。
よく「ああ、○○さんのことならよく知っていますよ」という台詞を人が集まるいろいろな場所で聞くことがある。
しかしジンメルによれば、「人が一定の人物を知っているとか、さらにみずからよく知っているということによって、まさしく彼は真に親密な関係の欠如をきわめて明瞭に示している」のだ。
人はよく知っているというこの標題のもとで他者について、この他者が外に向かって何であるかを知るにすぎない。
つまり、純粋に社会的・体面的な意味においてか、あるいはこの他者がわれわれに示すもののみを知っているにすぎないという意味において知っているにすぎない。
しかし、ここで注意しなければならないのは、ジンメルはこうした関係がうわべだけの嘘の付き合いで、ほんとうの付き合いとは、もっと相手の内面的な部分をすべて理解するような濃密な関係なのだ、ということをいっているのではない、ということである。
むしろ彼の考えでは、この「知人関係」という距離の取り方が、近代以降の私たちの関係あるいは他者に対する態度の取り方においては、重要な位置を占めていると考えられるのだ。
なぜなら、このような「知人関係」では、「配慮」という対人関係の距離の取り方における基本的態度が問題となるからだ。
ジンメルの発想を私なりにまとめると、次のようになる。
「知人関係」は、当人どうしが「社会的・体面的意味において」関係するために、ほんとうのコミュニケーションではない、うわべだけの表面的な人間関係と思われるかもしれない。
しかしそうではない。「知人関係」は、とりわけ近代以降私たちが適切な距離感をもって関係を形成していくための最も大切な心的構えを要求するという点できわめて重要な意味をもつ。
そしてその心的構えが「配慮」である。
配慮とは、まず第一に「秘密への配慮」、つまり相手が隠したがっていることをあれこれ詮索しないということを意味するが、そればかりではない。
どうしても隠したい、とまではいかなくても「他者が積極的に明らかにしないすべてのことについての知識から人が遠ざかるということにおいても成立する」のだ。
さらに「配慮」とは、「人びとが知ることを許されない特定のことでなく、全人格に対して行なわれる全くの一般的な遠慮」なのだ。
つまり、配慮しあうということは、私から見えるあなたは決してあなたそのものではないでしょうが、そのことを充分踏まえて私はあなたの人格の全体性を尊重します。
ですからあなたも私にそのように接してほしいですといった相互的関係を意味するのだ。
この「知人関係」と「配慮」に関する論述において、ジンメルはいわば適度な距離感覚をもった洗練(ソフィストケート)された人間どうしの関係を想定している。
ジンメルがイメージしている「知人関係」の原型はおそらく貴族社会において花開いた「社交」関係ではあるだろう。
しかしながら一人ひとりの大衆にとって「配慮」にもとづく距離の取り方が求められたのは、「プライバシー」という感覚が確立する近代なのだ。
「配慮とは、直接的な生活内容の領域に関する権利感にほかならない」というジンメルの考えは、まさに「プライバシー」について語っているわけだ。
このことを彼はまた「精神的な私有財産の権利」とも表現している。
つまり「人間の内的領域」を他者に侵犯されない権利というものを近代を生きる私たちはもっているのであり、こうした「配慮義務」は「プライバシーの保護」として法的権利として現実化されている。
感想
配慮しあうということは、私から見えるあなたは決してあなたそのものではないでしょうが、そのことを充分踏まえて私はあなたの人格の全体性を尊重します、という箇所がおもしろいと思いました。
人間関係は配慮し合って成り立っていることを改めて感じました。
下記の本を参考にしました
『ジンメル・つながりの哲学 』
菅野 仁