こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 「読み込み」と挫折
ローゼンバーグらは、「よい親」と「よい子」が招く親子の依存関係について指摘する。
彼らはニューイングランドのある家族への二度にわたるインタビューから、親と子が互いの期待に応えようとすることによってますます執着していく様子を描く。
この家族は父、母、娘、息子の四人であるが、娘は成人して家を出たあとも父とのあいだに激しい葛藤を抱えている。
一家の父親は、決して娘の人生を拘束するような厳しい父ではなかった。
彼は、むしろ「情愛」に満ち「自立」を促すような父親であった。
父は娘への「情愛」を示すため、娘には寛大な態度で振る舞った。
しかし、この父親の態度がかえって娘を強く戸惑わせる結果となっている。
娘は父親の理想の娘になろうとして父親の求める娘像を読み取ろうとしたが、父親の寛大さがその「読み込み」を困難にさせた。
一方、父親も理想の父親になることをめざし、娘の求める父親像を読み取ろうとした。
しかしそれも成功しなかった。娘は父親にはあえて「内面で何が起きているかについて一切見せるつもりはなかった」という。
娘が内面を見せることは父親に理想を自ら提示することを意味する。娘にとって理想の父親とはあくまでも、彼自身の能力で娘の要求を読み取り、それを満たすことのできる存在だったのである。
こうして娘と父親は親子関係に満足することなく、永続的に相手との関係に固執することとなった。
斎藤環は、現代では親子の緊密な関係が長期にわたって持続する傾向にあり、そのなかで母親と娘は支配 - 被支配関係に陥りやすいと指摘する。
彼は、親子関係に「承認」と「愛」の組み合わせによるダブルバインド状況が生じていると論じる。
従来の親子関係に関する議論では、「条件つきの愛」による親の支配が問題とされてきた。
「条件つきの愛」とは、「○○する子どもが好き」というメッセージを親が発し続け、子どもの人生を束縛するというものである。
子どもは親に愛されたい一心で自分の意思に反して「よい子」を演じようとする。
それによって、子どもはしだいに自分の欲求を閉じ込め、自己を押しつぶしてしまう。
このことが、大人になってから、人間関係においてトラブルや息苦しさを生じさせていく。
斎藤は、母親には単なる「条件つきの愛」ではなく「愛」と「承認」の組み合わせによる娘の拘束がみられると述べる。
「愛」とは「子どもに対する両価性をはらんだ強い執着」であり、「承認」とは「子供に対する肯定的な対応全般」である。
齋藤は、近年の親が子どもと対立しながらも容易に関係を断たないでいることに着目する。
彼は、親が「条件つきの承認」を示す場合には、「無条件の愛」が付随していることが多いと
指摘する。
たとえば、親は「○○したらあなたを認める」という言語メッセージを発する。
その一方で、現実にはそうしなかったとしても、子どもを直ちに突き放すのではなく、子どもには愛情をそそぎ続ける。
この「承認」と「愛情」が入れ替わることもある。
親の側に「条件つきの愛情」がある場合には、「無条件の承認」が付随する。
親は「○○するあなたが好き」という言語メッセージを伝えるが、じっさいにはその通りにしない子どもも無条件で受け入れる。
子どもは母親からさまざまな「条件」を突きつけられながらも、それに従わなくても受け入れられるという矛盾した状態に置かれる。
そのため、親と距離を置くためのきっかけが見つけられず、親との関係に矛盾を抱えながら、成人後も依存関係を保持し続けるというのである。
現代はまさに親子に「関係性の質」が問われる時代である。
親と子は互いに「相手にたいする細やかさと思いやり」をもって、相手の期待を読み取り、それに応えようとする。
そのような態度が互いの関係をますます緊密にし、さらに無条件の「愛」や「承認」が加わることによって親子の分離が困難になるような関係性が作り出されているのである。
感想
親子関係の不自由さが指摘されていて、おもしろかったです。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ