こんにちは。冨樫純です。
独学で、社会学を学んでいます。
そこから、個人的に関心のある話題を取り上げて、紹介したいと思います。
感想も書きたいと思います。
話題 デュルケームと模倣
代表的な社会学の古典的著作を取り上げて説明することにしよう。
「個人と社会」という主題を扱った社会学の代表的研究としては、エミール・デュルケームの『自殺論』(1897=1985)とマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(1905=1989)という2冊の古典的名著をあげることができる。
この2冊は社会学が「個人と社会」という問題を主題とすることによって、いかに「コミュニケーション」という問題を取り逃がしてしまったかをよく教えてくれる書物だと私は考える。
デュルケームの『自殺論』は、自殺というもっとも個人的に遂行される行為を、統計的データを駆使することによって、社会的(集合的) 意識の問題として論じることに成功した研究である。
たしかに自殺は個々の事象を取り出せば、失恋や経済的困窮や孤独などそれぞれの個人に固有の事情を原因として起きるのだが、統計的なデータを見れば、当人たちが意識していないところで、さまざまな社会的傾向をもって一定の割合で起きていることがわかるというのだ。
たとえばプロテスタント教徒が多い地域とカトリック教徒が多い地域を比べるとプロテスタントのほうが自殺率は高いし、未婚者と既婚者とを比較すると未婚者の自殺率が高く、戦争や政乱のような政治的危機があった年は平穏な年よりも自殺率は低下するといった傾向が見られる。
デュルケームによればこうした傾向は、カトリック教会や家族や国民的連帯といった強い社会的な拘束のもとにある人間が、自殺しにくくなるために生まれるのだ。
むろん自殺した個々人は自分の意識のなかでは、失恋や失業といった個々に固有の理由で死を選んでいるのであって、社会的拘束の不在を悩んで死んだというわけではない。
つまりここでデュルケームは、個人の意識とは無関係な次元に「もの」のように実在する「社会」を科学的に分析すべき対象として提示したのである。
では、このように「個人と社会」を問題にしたとき、デュルケームはいかにしてコミュニケーションの問題を取り逃がしたのだろうか。
それは自殺の原因としての「模倣」を論じたところに象徴的に現れていると思う。
デュルケームは『自殺論』の最初のほう(第一編第四章)で、ある個人が別の個人の自殺の影響を受け、それを模倣して自殺するような事例をさまざまに取り上げながら、その重要性に対しては否定的に議論している。
もし「模倣自殺」の重要性を認めてしまうと、社会的原因とは異なった、「コミュニケーション」
を原因とした自殺の問題が浮上してしまうからだ。
しかし現代のメディア社会を生きる私たちは、自殺がメディア・コミュニケーションを介して模倣的に引き起こされる事実をよく知っているだろう。
たとえば 1986年にアイドル歌手・岡田有希子の
自殺報道を聞いてそれを模倣した自殺が数多く生み出されたことがそうだし(横山 1991)、あるいはいじめ被害者の自殺がしばしば、過去のいじめ自殺者がメディア報道において英雄的被害者のように扱われ、その周囲の級友や教員がバッシングにさらされたのと同じ復讐的効果を狙って行なわれていることも事実だろう。
つまり、私たちの社会の若者は、いじめた他者への復讐という「コミュニケーション」の一環として自殺を遂行しているのである。
感想
自殺が個人的な理由で起きるものではなく、社会的な理由で起きるというデュルケームの主張は、
おもしろいと思いました。
また、自殺の復讐的効果もおもしろいと思いました。
下記の本を参考にしました
『コミュニケーションの社会学』
長谷 正人 他1名
有斐閣アルマ