こんにちは。冨樫純です。
「ぎりぎりの場所」についてのコラムを紹介します。
ぼくは許容派です。
何か重大な迷惑をかけらることがなければという条件は付きますが。
大阪市内の2つの公園で(2006年) 1月30日、ホームレスと呼ばれる人々のテントを市が強制撤去した。
これに先立つ 27日、大阪地裁で「公園は住民登録できる「住所」にあたる」という判決が出された。
ホームレスが「公共の場」を勝手に使うことを認めるのか、自分から望んで社会とのきずなを断ち切ったホームレスがなぜ住民登録をするのか、等々の声があちこちから聞こえてくる。
こうした反発の声にも一定の正当性があることを認めたうえで、公園を住所として認めるべきだとする判断を、正しいと私は納得する。
訴えた男性は、恐らくさまざまな事情によって、この日本社会の中に自分の生活の場を確保できなくなった人なのだろうと推測される。
人は幽霊ではないから、その人が生きていくためには、社会のどこかにいくらかの場所を占めることが絶対に必要だ。
自分だけの場所を正当に確保できない人が、それにもかかわらず生きていくためには、そして他者が私有する場所を奪うのでなければ、その人は公共の場にその居場所を求める以外にない。
「公園を利用する市民の権利が侵害されている」という主張の正しさは、この切実さを否定できるほどに強い正しさであるとは到底思えない。
「朝日新聞」2006年2月4日付
排除か許容か。
野宿者をめぐる意見はしばしば単純な二分法に陥ってしまう。
しかし、空間の視点からみたとき、たとえば公と私の二分法はかならずしも現実的ではない。
公園の空間使用には、実際にはいくつもの異なる水準があり、それらは共存可能であることを、筆者は主張している。
下記の本を参考にしました
『社会学』
新版 (New Liberal Arts Selection)
長谷川 公一 他2名